“てらぽん”の西洋哲学と日常を重ねてみる探究日記

西洋哲学の視座から日常を眺めると何が見えてくるか?を探究した記録です。

混迷する時代に哲学が求められる

哲学は悲しき企画屋と揶揄されます。

 

諸学問を創る最高抽象レベルにあるのに、抽象的すぎて、具体に落としたもの、例えば、科学、心理学などに人気を奪われます。

 

だけど、それゆえに、この混迷深く、正解のない現代には、哲学に回帰して、哲学それそのものに関心が集まるのでしょう。

 

そのおかげ、別に大学の哲学科を受けなくても、日常に大いに活かせるレベルの書籍が増えてきました。

参考にしているものをこれからもいくつか紹介したいと思います。

 

そのうちの一つがこちらの本です。

 

これまでの本は、

 

●●の提唱する概念はこういうもの

 

という内容が多くありました。

 

それはそれで、有意義なのですが、幾つか学んでいくと、

 

あれ?これはAはこう言っていたけど、Bはこう言っている。

どちらが適切なのか?

 

と思うことがあります。

 

それに対して、この本は概念を中心にまとめ、

 

Aはこう言っている

Bはこう言っている

Cはこう言っている

 

と並べて、しかも図解的でわかりやすく伝えてくれます。

秀逸な構成です。

 

例えば、「学校」についてです。

 

ルソーは「学校」について、

「学校など必要悪、個性を阻害せず発達年齢に応じた知性を提供する環境であれ」

と言っている。

 

デューイは、

「社会に出るための教育をする場所」

と言っているし、

 

フーコーは、

「国家にとって望ましい、従順に学ぶ姿勢を習得させる監獄」

と言っている。

 

これだけでも、様々な観点から「学校」というものに対して、認識を深めることができそうです。

 

現実世界に対する認識の変化、それを促してくれる素晴らしい本だと思います。

 

おまけですが、コラムでついている「5分で学ぶ哲学史」素晴らしい。

わずか数ページで哲学の全体をざっくり把握できる素晴らしい本です。

 

混迷のおかげで、良い時代になりました。

その良さを享受できればと思います。

 

また、良い本を紹介したいと思います。

 

chenspecによるPixabayからの画像

 

 

目的とは、言葉で世界を動かすために捏造されたもの

最近、目的という言葉をよく聞きます。


ストレートに目的だけでもなく、パーパスだったり、オブジェクトだったり、ゴールだったり。

英訳すると意味合いは多岐に渡りますね。


目的はとても大事ですね。


なぜか?


構造主義の観点に立てば、言葉の意味は構造が決めます。

構造というと仰々しいですが、前提と考えるとわかりやすいでしょうか。

見える前提、見えない前提で使われた言葉や行動の意味は変わってしまいます。


だから、目的を明らかにせずに言動したところで、それが適切なのかどうかも判断できません。

日本の生産性が低いのも目的を明らかにする力、そして、それに適うように取り組む力が弱いからではと思っています。

それについてはまた別の機会に。


で、目的とは何かな?と探究していました。

言葉でできているから当たり前な話ではありますが、目的には実態がありません。

世界を平和にする!という目的を持ったとして、平和なんてものは物理的にはないわけです。「あー平和だなー」と思う人がいて、なんとなくそう感じられる状態が平和なわけです。


ということは、言ったもん勝ちでもあります。

思っていようと、思ってなかろうと、目的は立てられます。

言葉を並べるだけですから。


お客様に貢献する!

と言いつつ、暴利を貪る企業もたくさんありますよね。


では、目的には意味なんてないのか?


そんなこともないと思います。


まず、方向性を持たせることはできます。


「目的地を持たない船の航行が順調かどうかわからない」


という言葉もあるように、方向性となる目的がなければ、取り組みが進んでいるのかどうかすらわかりませんよね。


そして、もう一つの機能して、「感情を刺激し行動を促す」があります。


例えば、ダイエットしたい人がいて、その目的が、

「自分の健康のため」

なのか

「家族と明るい未来を築くため」

なのか

で、心の動きは違いますよね。


「お父さん、家族の明るい未来のため、ダイエットを頑張っちゃうぞ!」

となりうるわけです。


そのとき、目的を表現する言葉は本人の感情を刺激するものがいいし、その刺激が足りなければ、違う言葉に変えてもいいわけです。


要は、目的が達せられるために目的は「捏造」していい

ということです

だって、正解はないのですから。

そして、強いて言えば、


「人が動き、目的が達せられること」


が、正解ですから。


目的は変えてはいけない、なんて後生大事に抱え込んで、その結果、人も何も動いていないケースはザラにあります。

目的の形骸化ですね。


目的は普遍ではなく、変化するもの

目的の目的はそれを成すため


それが前提であり、機能させる方法です。


目的を柔軟に捏造しながら、世界を動かしていきましょう!


mohamed HassanによるPixabayからの画像





何が子どもたちを傷つけるのか?

「他の人と比べて、劣っているってわかったら傷つくから、集団でなくて個人がいい」

 

小学生の娘が言った。

中学受験の塾選びについての会話だった。

 

冒頭の理由により集団指導ではなくて、個別指導スタイルの塾がいい、と。

 

しかし、どうにもその理由が、自分の中では納得感が低いものだった。

 

世の中、自分よりも優秀な人はごまんといて、大人になっても「あー自分はダメだなぁ〜」と劣等感に駆られ、しかし、それが原動力となって新たな学びや実践に向かうこともある。

 

人は他人との差異でしか自分を知ることはできない。

それはソシュールも言っているわけで、差異に気づくのは悪いことではない。

 

ただ・・・

 

理解できなかったのは、

 

「劣っていること」に気づくことで、「傷つく」

 

という言葉の繋がりだった。

 

「劣っている」からと言って、

なぜ、「傷つく」のか?

 

なぜ、そのような繋がりになるのだろう?

 

例えば、スポーツが顕著な例だ。

 

プロスポーツは皆、素晴らしいプレーをするし、目指している。

だからと言って、傷つかない。そのプレーに感動して、賞賛はすれど。

 

しかし、学業の成績においては、傷つくのである。

 

なぜだろう?

 

学業の成績がいい=優れた人 

 

であり、

 

学業の成績が悪い=劣った人

 

という意味づけをされているからだろうか?

 

それだけではない。

 

優れた人には、明るい未来(良い学校⇨良い会社⇨良い収入)

 

が待っていて、

 

劣った人には、悪い未来(悪い学校⇨悪い会社⇨悪い収入)

 

という未来からの意味づけがなされ、劣っている=悪い未来を受け入れる

ということが辛いのかもしれない。

 

スポーツでは、自分が当事者として関与することのないバーチャルな世界の優劣の生み出すドラマに感動するが、

学業では、自分が参加せねばならないリアルなドラマで、自分にも影響も受けるから、臨場感が高まり、辛いのかもしれない。

 

そんなことを感じているのは我が子だけだろうか?

他の子たちも感じているのだとしたら、なんと苦しい優劣の二項対立の中でサバイブさせられているのだろうと悲しくなってしまった。

 

我が子とは話し合いたい。

 

優は劣に依存することを。

劣がいなければ、優は本来存在しえない。

 

では、どこで優劣の線を引くのか?誰が線を引くのか?

それは本人たちの関係ないところで知らない大人たちが線を引き合っているだけだ、と。

誰かが勝手に引いた線に傷つくことなどないのだ、と。

 

そんな勝手な線に怯えることなく、自らの理解を促進する最適な選択をすればいい、と。

それで個人がいいなら個人、集団がいいなら集団。

自信を持って選ぼうと。

 

子どもの反応は社会の集団思考バロメーターかもしれない、と改めて思った。

 

引き続き、良く観察していこう。

 

Gerd AltmannによるPixabayからの画像

 

過去が断罪されていく時代に


佐藤優さんのベストセラー「国家の罠」の中で、担当していた検事の話として、政治犯が摘発されるのは世間の合法・違法のハードルが下がった結果、という話があります。

 

まさにドゥルーズの「社会公理系」、の話になってくるのですが、ふと見ていた記事でも、ここまで来たのかと驚いた記事がありました。

 

それがこちらです。

 

端的には、社会的地位のある方達の集まりで、コンパニオンの女性を呼び、本人たちの予期せぬ行為を強制されて、被害届を出されて、逮捕された。

 

と言うことですね。

 

これはこれで、そうですか・・・

と言う記事なのですが、哲学的観点から見たときに、この記事を見て戦々恐々としている方も多いのではないか、と思われます。

 

表に裏に、似たような場面が多いのではないかと思います。

スーパーコン●ニオンなる業を旅館などでも案内(受け入れ?)されているからですね。

 

利用される方としてはお金を払ったので合法と思ったら、何か相互のやり取りで行き違いがあった結果、逮捕されるリスクを孕んでいる・・・そのようにも見える記事です。

 

今回、事件化されるぐらいなので、もっとえげつないやりとりがあったのではないかと思うのですが、この先に透けて見えるのは、「社会浄化」のような流れです。

これは、一つの大きな流れでさる「多様性」とも関連してくるでしょう。

つまるところ、「男性目線」で作られた様々な文化は、断罪される可能性がより増している、と言うことです。

 

極端な話、女性にお茶出しを強要させたら、それで訴えられる可能性も出てくるような極端な方向に向かっている、と言うことですね。

 

現代の「社会公理系」はその方向に進んでいる。

そのように認識していた方が無難だろうと思います。

 

そんな卑猥で猥褻な文化なんて、なくていいじゃん!

 

と思われるかもしれませんが、光強ければ、闇もまた深し。

思わぬ影響が出てくる可能性が高まります。

それが身近で起きるかもしれません。

 

自分のやっている、やろうとしていることは老若男女から見て、どう見えるのか?

 

と言う観点は少なくとも持っていた方がよさそうです。

 

瑣末なニュースからも考えさせられますね。

気をつけましょう。

 

Klaus HausmannによるPixabayからの画像

 

 

コーチングはプロレスか?

言語分析の観点に立てば、言葉の意味は双方が合意しなければ成り立ちません。

言葉に真の意味などないので。

 

そのように考えると、様々なコミュニケーションは前提の擦り合わせが大事です。

外国で言葉が通じないのは、発音や単語がわからないのではなく、その前提が合っていないからと言う面が強いと考えます。

 

そんなことを先日、コーチングのセッションをしながら考えていました。

 

コーチングで大切なことは何か?

 

傾聴する力、質問する力などはもちろんあるのですが、言語分析の観点に立つならば、場の設定ではないか、と考えます。

 

コーチングとは、お互いの場の設定

 

と言っても言い過ぎではないのかもしれません。

 

その様は、明文化されていなくても、ロープに投げたら戻ってくる、そして技を受けることに美学のあるプロレスにも似ているのだろうと思います。

 

このコーチングセッションは、

何を目指す場か

どのような方法でそれを行うか

お互いの約束事は何か

 

それをしっかり擦り合わせなければ、その後の会話は意味が通じないため、機能しないでしょう。

また、話が迷走するのも場の設定が合わなくなっているからと考えられます。

 

友人コーチからたまに聞くのは、

「クライアントが心を開いてくれない。だから会話が進まず、契約も解除されそうだ」

、と。

 

以前は、

 

「人間だもの、仕方ないよね」

 

と考えていたのですが、哲学を学び、「場の設定」と言う観点に立ったならば、それは

 

「そもそもあなたの場の設定が誤っているのでは?」

 

と考えるようになりました。

 

それはプロレスに対してストリートファイトのようなルール無法の観点から「真剣勝負じゃない!」と喚いているようなものです。

お互いの合意が取れていないから、心も開いてくれず、会話もしてくれない、のではないか?と。

 

友人コーチに伝えるとするならば、クライアントに対してすべきことは不満を溜めることではなく、

コーチングをするにあたっての合意を実行してくれていない、今のあなたに起きていることはなんですか?」

でしょうか。

 

クライアントが機能するコーチングを提供したいなら、場の設定からやり直すしかないのです。

それが合意されてなければ、いかに素晴らしい質問をしようと機能しないでしょう。

その質問の言葉を支える構造がないのですから。

 

これは、職場の上司関係でも、親子関係でも使える観点だと思います。

 

「関係性は自ずとあるもの」

 

と思うのか、

 

「関係性は創作されるもの」

と捉えるかで世界の見え方は変わりますから。

 

このあたりは、また書いてみたいと思います。

 

 

 

言葉、この自由なもの

言葉は、自由の象徴である

 

そのようなことを、この本を読み進めていて思いました

 

amzn.to

 

言葉自体に何ら意味はない。

その記号の羅列にある意味“勝手に”人間がイメージをくっつけて理解するわけです。

言葉は自由、ただし、意味は捏造されている、ということですね。

 

その中で面白い概念がありました。

 

ダブリング、という言葉の意味を可視化する取り組みのようです。

 

www.doubring-j.com

 

二項対立するような言葉、例えば、理想と現実など、お互いの関係性がどうなっているか?を円で表して、認識の違いを明らかにする取り組みだそうです。

 

人によっては理想と現実が重なり、ある人は離れている。

 

そんなことズレを確認しあえるそうです。

 

組織の中でも使えそうな概念だと思いました。

 

たとえば、目的、目標 パーパス、ミッション、ビジョン

など、抽象的な言葉はどんな関係にあるのか、それはなぜか?

 

を考えていくのも面白いですよね。

 

最終的に、何がトップで重要視されるチームなのか、そんなことにも使えそうです。

 

サルトルは、

人間は自由の刑に処されている

と言いました。

 

言葉もまさにそうだと思います。

自由であるがゆえの苦しみ。

その苦しみが創造につながる。

その一つがダブリングでしょう。

 

私も言葉をよく観察していきたいと思います。

 

 

inspireusによるPixabayからの画像 

わかりやすい世界に支配させてはいけない

子どもとセグウェイ体験に行ってきました。

 

当初、子どもたちに

 

セグウェイに乗りに行こう!」

 

と誘ったのですが、

 

「えー、外は暑いし、家でゲームしてる方がいい!」

 

と曰う。

 

そこで一喝。

 

「誰かの作ったわかりやすいものに乗っ取られているんじゃない!」

と。

 

人間はわかりやすいもの、明確になっているものだけでは生きることができません。

 

栄養表に書いてあるような「1日に必要な栄養素」を明確にサプリメントだけでとっても、おそらく不健康になるでしょう。

 

言語化されたもの、明確になったものはわかりやすい。

それを達すれば、達成感や満足感は得られるかもしれません。

 

最近のゲームはランダム性も増し、あたかも現実に近いような感覚があります。

メタバースで先行していると思われる“Fortnite”などは、まさに現実に近くなっている。

 

だけど、そこから得られるものは作り物の世界です。

それ以上でも、それ以下でもありません。

 

セグウェイ自体は作り物でありますが、

 

砂利や土のガタガタ感

疾走して風を切る感じ

太陽の照り返しの熱さ

優雅に空を飛ぶトンビ

 

などなど、ゲームなどでは処理も体験もできないことが現実では起きていて、そして感じることができます。

 

楽しみはすれど、乗っ取られてはいけない。

そんなことになるなら、ゲームもテレビも放棄しよう。

 

と子どもたちを説得して、外の世界に連れ出したのでした。

 

山、川、海、もっとわかりやすくも、シンプルでもない世界に、積極的に連れ出して行こうと思います。

 

そう思う背景としては、ドゥルーズの「欲望機械」という概念、つまり人は欲望を求める機械のように行動する、ということの強化への恐れがあるという感じでしょうか。

 

どんどん手軽な快楽だけを求め、不快を遠ざけていく。

最終的にはマトリックスのようになってしまうのではないか。

そんなことを考えています。

 

自分ではどうにもならない大きなものに畏怖し、そして、体感する。

そのような経験を創っていきたいと考えているのでした。

 

子どもたちにヤーヤー言われながらも、連れ出すことが親の役目の一つであるかなと。

哲学を学び、改めて、そう考えています。

 

Apollo22によるPixabayからの画像