“てらぽん”の西洋哲学と日常を重ねてみる探究日記

西洋哲学の視座から日常を眺めると何が見えてくるか?を探究した記録です。

中国古典の気になるところ

とある課題図書でこちらの本を読まされて読んでいます。

(それに影響されてこちらの更新頻度も下がっています^^;)

 

 

中国古典の講義形式といえば、安岡正篤さんのものが多かったのですが、この本はそれ以上に面白かったのでオススメです。

 

面白かったのは、

 

・一つの見方ではなく、朱子王陽明、そして、様々な著者の読み方を横断的に考えていて視点が多い

・現代に引き寄せて考えているので理解しやすい

 

という点でした。

 

しかし……

 

西洋哲学の観点から眺めると、少し物足りない感じはします。

 

中国古典は過去が正解、なんですね。

それをいかに読み解くか、読み取るか。

 

なんで、それが正解だといえるの?

 

と問うても、過去の聖人君主がそうしたらうまくいっていたらから、平和だったから、としか書かれていません。

 

国を治めるには、家を治める必要があり、

家を治めるには、個人を治める必要がある

 

おお!なるほど!

と思う反面、それは当たり前ではないか……

とも思ってしまいます。

 

西洋哲学は抜け漏れはありながら、未来に向けてアップデートしていくが、

 

東洋哲学(中国古典)は、過去の聖人君主の経験からみてこれが正解!だから、これを参考書に現代を生きなさい

 

という感じなんですね。

なので、わかったような、わからないような……となってしまいます。

 

一つの指針としては参考になると思います。

ただ、これからの変化の激しい現代にそのまま活かせるかは、なかなか厳しいのではないでしょうか。

 

古典に(たまに)帰省し、人間を省みる。

 

そのように私はいかさせてもらおうと思います。

이룬 봉によるPixabayからの画像

 

 

松下幸之助翁はデコードの天才

おはようございます。

 

西洋哲学の観点から、松下幸之助翁の本を探究しています。

 

そうした観点から読むと、実に面白い見方ができます。

 

松下翁は、デコードの天才だったのだな、と気づくことになりました。

 

楽観よし悲観よし。
悲観の中にも道があり、楽観の中にも道がある。

 

例えば、こちらの名言。

楽観もいいけど、悲観もいいものだよ。

と言っています。

 

悲観はなんとなくネガティブなイメージがありますよね。

できれば避けたいというか。

 

でも、悲観することで見出せることもあるので、悪いものではない。

 

まずは悲観というものをデコードして、「いいものだ」としている。

とても自然に視点を変え、思考を変えてもらえますよね。

 

そして、まだ先があるのです。

 

楽観にも悲観にも道がある、と。

ここは解釈ですが、わざわざ同じ「道」という言葉を使っているということは、おそらくどちらにも共通するもの、統合する意味で「道」なのだろうと思います。

 

つまり、楽観と悲観を二項対立させて、そのジンテーゼが道なのでしょう。

 

この道に立てば、楽観も悲観も選べる、ということになるでしょうか。

 

この道のポジションに立てば、楽観も悲観も下位の概念として扱うことができます。

 

おそらく楽観で判断を危うくすることも、悲観で危機を逃すこともなくなるでしょう。

それは、楽観も悲観もそれそのものを扱わず、道という上位の概念、枠組みから捉えることができるからです。

 

好況もいいけど、不況もまたいい

 

という言葉も、デコードしていますよね。

経済というものをデコードしています。

 

この、さりげない、大衆の認識が偏ったものをサッと反転させて、気がつくと上位概念に導いている、このデコードする力、そして、それを伝える力が凄まじいと思いました。

 

相手の話の何を聞くか、どこを観るか?という点からも大変参考になります。

天才は哲学者と同じ思考の営みをしているのかもしれませんね。

その背景としては“私”がいないから突き放せるのかもしれませんね。

 

また名言で気づきがあったら、紹介します。

 

Todd MacDonaldによるPixabayからの画像

 

日常の差別は悪意ではなく無意識が創る

ある人のSNSの投稿で感じることが起きました

 

昨今のヘイトスピーチなどを見ていると主張を持った人が悪意に満ちた言葉を高らかにアジる

 

そんなイメージがありました。

 

しかし、そのような表立ったものはそれほどに世の中の常識として浸透はせずに、時に法律で排除されたりしていきます。

 

しかし、未だ根強い男女差別であったりなどは別に高らかに叫ばれているものでもありません。いつの間にか、浸透しているというのが本音でしょう。

その辺りは、性別の振る舞いを題材にした歌があったり、LGBTを揶揄した芸やコントが地上波に流れていた一昔前のテレビ番組などを見てもわかると思います。

 

なぜ、それが浸透していくのか?

別に高らかに声を上げている訳でもないのに?

 

では、誰がそれを作るのか?

 

と考えると、強く主張する人ではなく、そのような人になんとなく作られた空気感に包まれている人、つまり構造の中にいて、しかも、それに無意識に言動を影響されている人、ではないでしょうか。

 

言葉が現実を創ります

そして、人間も言葉で世界を認識している

 

なので、言葉自体の使われ方が差別めいたものを含んでいて、日常でやり取りされていたら、本人は意識しなくても差別は生まれ、根付いていくことでしょう。

 

なので、差別を本気でなくしていくならば、その場面における使う言葉を変えなければいけない。

 

言葉の使用を変える

 

例えば、よくあるのは飲み会などで、取り分けが上手な女性に「いい奥さんになりそう」などというのは、一つの褒め言葉でした。

 

が、そこでに既に男女の差別、というかバイアスが生まれていることには最近世の中も気づいてきました。

 

学校でも、企業でも、差別撲滅に向けた研修や教育を長年しています。

私も講師側に回ることがあります。

 

しかし、撲滅には至らない。

 

なぜだろう?

 

明確な答えはないですが、「差別はダメよ」と念仏のように唱えてもダメなのだろうと思います。

 

差別を生み出す言葉の使用を変える。

その場面で使われる言葉を変える。

あるいはその場面自体を変える。

 

そうすることで、無意識に使っている言葉も変わっていくことでしょう。

 

どうすればいいのか?

 

まずは、自分の使っている言葉が差別の継続を助長していないかを考えるところからでしょうか。

色々と試してみればいいのだろうと思っています。

 

Sergio Cerrato - ItaliaによるPixabayからの画像

 

 

 

 

 

 

モダンエルダーという生き方

たまたまこの本が目につき手に取りました

 

 

モダンエルダー……。

 

なんと素敵な造語だろう、という感じです。

自らのありたい姿が言葉になったように思いました。

若長老、ではなんだかなー。ここは横文字の方が多様な解釈が生まれますね。

 

様々な経験と知恵を通して、若者を支援する。

具体的には20歳以上離れた人たちの起業や事業を支援する、そんな立ち位置の役割のようです。

 

私が組織に所属しながら、西洋哲学などを学んでいることとも、合致します。

 

様々に刺さる言葉があります。

 

「もし成熟をふたたび人々の憧れにすることができたら、この世界が変わる」

その通りだと思います。

現代は世代間の断絶が起こるし、老いることがネガティブなものになりがちです。

老いるのではなく成熟する。

そこにポジティブなイメージがついていくと、より世界は楽しくなるように思います。

「変化を恐れず、飽くなき知的好奇心を持ち続け、大きなことに関心を持ち、小さなことに幸福を見出す」

成熟すると色々と理解して関心がなくなるような気がしますが、この概念は違います。成熟して、ますます進化する。

時代が変化する中で大いに重要な要素になりますよね。

年長者は若者の応援者となり、そのことで見返りを得ると言っている。「教師は弟子がその人自身を見つけることを助け、弟子は教師が彼自身を見つけることを助ける。教師は弟子の魂に火をつけ、教師とその人生は彼が燃やした炎に包まれる。弟子はその問いかけによって無意識に返答を呼び覚まし、教師はその問いがなければ生み出されなかった答えを生み出す

お互いをリスペクトし、そこから新しいものを生み出す。

そんな素敵なイメージが湧いてきました。

 

年金の支給は当然のように先送りされ、60歳を超えても企業に残り、しかし所得は減り、仕事も面白味がなくなっているのが現状です。

 

でも、モダンエルダーというマインドセットが入ってくると、よりよい方向へ、より生産的な組織に変化していくのではないでしょうか。

 

モダンエルダー協会を創りたいぐらいの意欲が高まっています。

 

まずは完読して考えようと思います。

 

子どもたちの未来のためにモダンエルダーを増えていく。

そうなったらいいな。

 

jpm935によるPixabayからの画像

 

言葉が分断させることを意識しないといけない

言葉は便利ですよね

 

赤くて、ヘタがあって、中には種があって、小さい時は青くて、熟してくると赤くなり、食べると甘酸っぱさがあって、そのままでもいいし、ジュースににもなるような果物

 

 

林檎

 

とたった2、3文字で表現できて、おおむね、多くの人とイメージを合わせられるんですから。

 

ただ、反面、言葉は分断も生むものになります。

 

林檎かそれ以外か

 

別に林檎であれば、指し示すものが実態としてあるので、単に林檎と認識されているものか、それ以外かぐらいしかないので、大した分断はありません。

 

ただ、これが

 

ブランド林檎

 

なると、ブランド林檎かそれ以外かになり、

それを作る農家かそれ以外の農家か、

それを取り扱う店かそれ以外か

 

など、分断を生んできます

現実として、それにより売り上げが変わったりもするでしょうし、現実に影響も与えます。

言葉を扱うのは恐ろしいですね。

 

そんな気持ちをFacebookでの投稿で表現されているのを見つけました。

 

著名な教育者の工藤勇一先生の言葉

投稿から引用

「心を一つに」「団結」「絆」

 

確かによく聞く言葉です。特に、3.11の大震災以降など。

 

しかし、その言葉の奥には「強制」も見え隠れします。

 

美しい言葉は、善なるものに感じますね。

 

「心を一つに」「団結」「絆」、それらがなされるとなんだか良さそうな状態なイメージが湧いてきます。

しかし、同時にそれが危うさも秘めています。

 

「心を一つに」にしないといけない。一つにしない人は仲間ではない。

「団結」しないといけない。団結できない人は仲間ではない。

「絆」を深めないいけない。深められない人は仲間ではない。

 

それらの言葉を受け入れられない人は疎外される危険性を孕んでいます。

 

本来、これらの言葉は「状態」であるはずなのに、「目標」となってしまいがちなのところも心に留めないといけないですね。

 

一見、美しそうな言葉、耳あたりの優しい言葉を聞く機会が増えたら、注意してしなければならないですね。

 

そこには言葉の性質上、

เฉลิมพล ศรีสังข์によるPixabayからの画像


必ず分断の可能性がある、と。

 

悲しみを生み出すのは誰だろう……

目的と方法の取り違えが悲劇をつくるな・・・と思わされたニュースがありました。

 

news.yahoo.co.jp

 

部活のトラブルといえば運動系、というバイアスがあるのに気づいたのですが、部活なのに過労死ラインというアンマッチが、この異常さを浮き彫りにしています。

 

何が起きていたのかは当事者でないとわからないのですが、このことを具体事例として、運動部のトラブルなどから抽象化していくと、

 

部活をすること自体の目的化

 

ということが一つ見えてくるのかと思います。

 

そして、目的を設定するのは往々にして大人たちです。

 

最近は、子どもたちが自ら設定するケースも増えていると思いますが、それでもやはり全国大会、それにつながる地域大会などを設定するのは大人でしょう。

その部活動に送り出すのも大人だし、そのような活動を許可するのも大人。

止めることが出来たのも大人。

 

〇〇大会優勝などという目標はシンプルでわかりやすく、皆の思いは向けやすい。

でも、あくまでそれは目標であって、目的ではない。

活動を通じて、心身の成長を養う、能力の開発、可能性を開く、そして、人生をより豊かにすることが目的なのだろうと思います。

その目的に立てば、練習時間の制限であったり、科学的な練習方法を持ち込むなり、様々な方法は見えてきます。

方法は無限なので・・・

 

異常に気づき、状況を俯瞰し、方法を練り直すことができるのも大人の役目だと思います。

 

願わくば、部活動自体を俯瞰して、アドバイスできるような立場の人が必要なんだろうなぁと思います。

 

この活動の目的は?

その目的の目的は?

 

を常に問い直していく機会がありますね。

 

そうでなければ、活動システム、構造の中に組み込まれてしまいますから・・・

 

 

 

 

 

 

 

世間の猥雑なノイズを断ち切る特効薬

結構破天荒な内容な漫画家さんが叩かれています。

 

この漫画家さんの破天荒な内容に笑い、そして、人間ドラマにはいくつか涙させられました。

 

個人的には面白く、素晴らしい漫画家だと思います。

 

そして、叩かれる要因はその家族からの告発のようなもの。

 

それは親子間では、それぞれにおいて事実なのでしょう。

全くその関係性のない自分が聞いても、そりゃなかなか大変なのだと思います。

 

が、

 

それは当事者だから問題なのであって、外部からとやかく言える話ではない。

ましてや、破天荒さが売りの漫画家さんが、想像しうるような平凡な日常にいて描けるのか?

難しいことだと思います。

 

それ以上に問題なのは、別に本件に限らず、当事者でもないのにエネルギーを奪われてしまう人たちです。

 

日常の出来事に意識を奪われ、世間の中に埋没している人。

みんなと同じ意見を言い、同じ行動をする「誰でもない人」。

 

その結果、自分本来のかけがえのない人生を消費し、浪費している。

 

そのような人を、ドイツの哲学者 ハイデガーは「ダス・マン(世人)」と言いました。

 

DVだ、不倫だ、と自らが関係しない他人の事柄を、観戦するかのように野次を飛ばす。

野球を観戦するファンが、いくら情熱を燃やして研究し、お金と時間を投下してもフィールドでプレイする選手にはなり得ません。

 

選手になるためにはフィールドに降り立ち、その実力を認められ、受け入れられなければならないからです。

そして、試合をする当事者でなければいけない。

観客がいかに多くても選手がいなければ試合は始まりませんから。

 

とはいえ、意識しなくても、テレビや雑誌、メールなど、様々な角度から自分の意識に侵入してこようとします。

注意をどんどん奪っていきます。

 

そんな時はどうすればいいのでしょうか?

 

即効性のある特効薬は、

 

自らの「死」の瞬間を意識する

 

ことです。

 

死を意識し、自分が最大の当事者である「我が人生」に意識のポジションを戻した時、世間を賑わす「他人事」はどうでも良くなるはずです。

そして、必ず向かう死に向かって、自分がどう生きるか。

それにエネルギーを向けることができるでしょう。

 

逆説的にいえば、日常の瑣末な情報に熱を入れるのは「自分の死」を直視せずに、紛らわせているだけ、とも言えるでしょう。

 

それを自覚した上で、何かその問題に当事者として関与するならばするべきだし、そうでなければ、沈黙すべきでしょう。

口をひらけば、他の人生に干渉するかもしれませんから。

 

「やがて死ぬ存在」

 

ということを直視し、立ち返ることで、なんだかエネルギー湧いてくるから不思議ですね。

 

PexelsによるPixabayからの画像