“てらぽん”の西洋哲学と日常を重ねてみる探究日記

西洋哲学の視座から日常を眺めると何が見えてくるか?を探究した記録です。

世間の猥雑なノイズを断ち切る特効薬

結構破天荒な内容な漫画家さんが叩かれています。

 

この漫画家さんの破天荒な内容に笑い、そして、人間ドラマにはいくつか涙させられました。

 

個人的には面白く、素晴らしい漫画家だと思います。

 

そして、叩かれる要因はその家族からの告発のようなもの。

 

それは親子間では、それぞれにおいて事実なのでしょう。

全くその関係性のない自分が聞いても、そりゃなかなか大変なのだと思います。

 

が、

 

それは当事者だから問題なのであって、外部からとやかく言える話ではない。

ましてや、破天荒さが売りの漫画家さんが、想像しうるような平凡な日常にいて描けるのか?

難しいことだと思います。

 

それ以上に問題なのは、別に本件に限らず、当事者でもないのにエネルギーを奪われてしまう人たちです。

 

日常の出来事に意識を奪われ、世間の中に埋没している人。

みんなと同じ意見を言い、同じ行動をする「誰でもない人」。

 

その結果、自分本来のかけがえのない人生を消費し、浪費している。

 

そのような人を、ドイツの哲学者 ハイデガーは「ダス・マン(世人)」と言いました。

 

DVだ、不倫だ、と自らが関係しない他人の事柄を、観戦するかのように野次を飛ばす。

野球を観戦するファンが、いくら情熱を燃やして研究し、お金と時間を投下してもフィールドでプレイする選手にはなり得ません。

 

選手になるためにはフィールドに降り立ち、その実力を認められ、受け入れられなければならないからです。

そして、試合をする当事者でなければいけない。

観客がいかに多くても選手がいなければ試合は始まりませんから。

 

とはいえ、意識しなくても、テレビや雑誌、メールなど、様々な角度から自分の意識に侵入してこようとします。

注意をどんどん奪っていきます。

 

そんな時はどうすればいいのでしょうか?

 

即効性のある特効薬は、

 

自らの「死」の瞬間を意識する

 

ことです。

 

死を意識し、自分が最大の当事者である「我が人生」に意識のポジションを戻した時、世間を賑わす「他人事」はどうでも良くなるはずです。

そして、必ず向かう死に向かって、自分がどう生きるか。

それにエネルギーを向けることができるでしょう。

 

逆説的にいえば、日常の瑣末な情報に熱を入れるのは「自分の死」を直視せずに、紛らわせているだけ、とも言えるでしょう。

 

それを自覚した上で、何かその問題に当事者として関与するならばするべきだし、そうでなければ、沈黙すべきでしょう。

口をひらけば、他の人生に干渉するかもしれませんから。

 

「やがて死ぬ存在」

 

ということを直視し、立ち返ることで、なんだかエネルギー湧いてくるから不思議ですね。

 

PexelsによるPixabayからの画像