“てらぽん”の西洋哲学と日常を重ねてみる探究日記

西洋哲学の視座から日常を眺めると何が見えてくるか?を探究した記録です。

日常の差別は悪意ではなく無意識が創る

ある人のSNSの投稿で感じることが起きました

 

昨今のヘイトスピーチなどを見ていると主張を持った人が悪意に満ちた言葉を高らかにアジる

 

そんなイメージがありました。

 

しかし、そのような表立ったものはそれほどに世の中の常識として浸透はせずに、時に法律で排除されたりしていきます。

 

しかし、未だ根強い男女差別であったりなどは別に高らかに叫ばれているものでもありません。いつの間にか、浸透しているというのが本音でしょう。

その辺りは、性別の振る舞いを題材にした歌があったり、LGBTを揶揄した芸やコントが地上波に流れていた一昔前のテレビ番組などを見てもわかると思います。

 

なぜ、それが浸透していくのか?

別に高らかに声を上げている訳でもないのに?

 

では、誰がそれを作るのか?

 

と考えると、強く主張する人ではなく、そのような人になんとなく作られた空気感に包まれている人、つまり構造の中にいて、しかも、それに無意識に言動を影響されている人、ではないでしょうか。

 

言葉が現実を創ります

そして、人間も言葉で世界を認識している

 

なので、言葉自体の使われ方が差別めいたものを含んでいて、日常でやり取りされていたら、本人は意識しなくても差別は生まれ、根付いていくことでしょう。

 

なので、差別を本気でなくしていくならば、その場面における使う言葉を変えなければいけない。

 

言葉の使用を変える

 

例えば、よくあるのは飲み会などで、取り分けが上手な女性に「いい奥さんになりそう」などというのは、一つの褒め言葉でした。

 

が、そこでに既に男女の差別、というかバイアスが生まれていることには最近世の中も気づいてきました。

 

学校でも、企業でも、差別撲滅に向けた研修や教育を長年しています。

私も講師側に回ることがあります。

 

しかし、撲滅には至らない。

 

なぜだろう?

 

明確な答えはないですが、「差別はダメよ」と念仏のように唱えてもダメなのだろうと思います。

 

差別を生み出す言葉の使用を変える。

その場面で使われる言葉を変える。

あるいはその場面自体を変える。

 

そうすることで、無意識に使っている言葉も変わっていくことでしょう。

 

どうすればいいのか?

 

まずは、自分の使っている言葉が差別の継続を助長していないかを考えるところからでしょうか。

色々と試してみればいいのだろうと思っています。

 

Sergio Cerrato - ItaliaによるPixabayからの画像