“てらぽん”の西洋哲学と日常を重ねてみる探究日記

西洋哲学の視座から日常を眺めると何が見えてくるか?を探究した記録です。

言葉が分断させることを意識しないといけない

言葉は便利ですよね

 

赤くて、ヘタがあって、中には種があって、小さい時は青くて、熟してくると赤くなり、食べると甘酸っぱさがあって、そのままでもいいし、ジュースににもなるような果物

 

 

林檎

 

とたった2、3文字で表現できて、おおむね、多くの人とイメージを合わせられるんですから。

 

ただ、反面、言葉は分断も生むものになります。

 

林檎かそれ以外か

 

別に林檎であれば、指し示すものが実態としてあるので、単に林檎と認識されているものか、それ以外かぐらいしかないので、大した分断はありません。

 

ただ、これが

 

ブランド林檎

 

なると、ブランド林檎かそれ以外かになり、

それを作る農家かそれ以外の農家か、

それを取り扱う店かそれ以外か

 

など、分断を生んできます

現実として、それにより売り上げが変わったりもするでしょうし、現実に影響も与えます。

言葉を扱うのは恐ろしいですね。

 

そんな気持ちをFacebookでの投稿で表現されているのを見つけました。

 

著名な教育者の工藤勇一先生の言葉

投稿から引用

「心を一つに」「団結」「絆」

 

確かによく聞く言葉です。特に、3.11の大震災以降など。

 

しかし、その言葉の奥には「強制」も見え隠れします。

 

美しい言葉は、善なるものに感じますね。

 

「心を一つに」「団結」「絆」、それらがなされるとなんだか良さそうな状態なイメージが湧いてきます。

しかし、同時にそれが危うさも秘めています。

 

「心を一つに」にしないといけない。一つにしない人は仲間ではない。

「団結」しないといけない。団結できない人は仲間ではない。

「絆」を深めないいけない。深められない人は仲間ではない。

 

それらの言葉を受け入れられない人は疎外される危険性を孕んでいます。

 

本来、これらの言葉は「状態」であるはずなのに、「目標」となってしまいがちなのところも心に留めないといけないですね。

 

一見、美しそうな言葉、耳あたりの優しい言葉を聞く機会が増えたら、注意してしなければならないですね。

 

そこには言葉の性質上、

เฉลิมพล ศรีสังข์によるPixabayからの画像


必ず分断の可能性がある、と。