“てらぽん”の西洋哲学と日常を重ねてみる探究日記

西洋哲学の視座から日常を眺めると何が見えてくるか?を探究した記録です。

わかりやすい世界に支配させてはいけない

子どもとセグウェイ体験に行ってきました。

 

当初、子どもたちに

 

セグウェイに乗りに行こう!」

 

と誘ったのですが、

 

「えー、外は暑いし、家でゲームしてる方がいい!」

 

と曰う。

 

そこで一喝。

 

「誰かの作ったわかりやすいものに乗っ取られているんじゃない!」

と。

 

人間はわかりやすいもの、明確になっているものだけでは生きることができません。

 

栄養表に書いてあるような「1日に必要な栄養素」を明確にサプリメントだけでとっても、おそらく不健康になるでしょう。

 

言語化されたもの、明確になったものはわかりやすい。

それを達すれば、達成感や満足感は得られるかもしれません。

 

最近のゲームはランダム性も増し、あたかも現実に近いような感覚があります。

メタバースで先行していると思われる“Fortnite”などは、まさに現実に近くなっている。

 

だけど、そこから得られるものは作り物の世界です。

それ以上でも、それ以下でもありません。

 

セグウェイ自体は作り物でありますが、

 

砂利や土のガタガタ感

疾走して風を切る感じ

太陽の照り返しの熱さ

優雅に空を飛ぶトンビ

 

などなど、ゲームなどでは処理も体験もできないことが現実では起きていて、そして感じることができます。

 

楽しみはすれど、乗っ取られてはいけない。

そんなことになるなら、ゲームもテレビも放棄しよう。

 

と子どもたちを説得して、外の世界に連れ出したのでした。

 

山、川、海、もっとわかりやすくも、シンプルでもない世界に、積極的に連れ出して行こうと思います。

 

そう思う背景としては、ドゥルーズの「欲望機械」という概念、つまり人は欲望を求める機械のように行動する、ということの強化への恐れがあるという感じでしょうか。

 

どんどん手軽な快楽だけを求め、不快を遠ざけていく。

最終的にはマトリックスのようになってしまうのではないか。

そんなことを考えています。

 

自分ではどうにもならない大きなものに畏怖し、そして、体感する。

そのような経験を創っていきたいと考えているのでした。

 

子どもたちにヤーヤー言われながらも、連れ出すことが親の役目の一つであるかなと。

哲学を学び、改めて、そう考えています。

 

Apollo22によるPixabayからの画像