“てらぽん”の西洋哲学と日常を重ねてみる探究日記

西洋哲学の視座から日常を眺めると何が見えてくるか?を探究した記録です。

クレヨンしんちゃんにみる“自由すぎる”の恐ろしさ

子どもがアニメ「クレヨンしんちゃん」を観ているのを見ていました。

 

個人的に「クレヨンしんちゃん」は哲学の実践者だと思っています。

 

何かを言われてもズラして、違う価値を付加する、あるいは創作する

意味づけを強制されそうな事柄も反転したりと自由自在にいじる

 

「子どもに見せたくない番組」に18年連続で選ばれているとのことですが、それはおそらく大人の価値観の枠組みから飛び出すことを促そうとするからだと考えています。

※お下品な言葉もありますがw

 

先日のクレヨンしんちゃんの放送の中で、ある書道家のお堅そうな先生としんちゃんが対峙?し、自由気ままにはしゃぎ放題のしんちゃんをみて、先生が

 

「(この子は)自由すぎる」

 

とのセリフがありました。

 

哲学的観点から考えてみて、このセリフが興味深いなと思います。

 

そもそも自由とは?と問い出すと話が膨大に広がってしまうので、自由を仮に定義しますと、

「他者の価値観や場の環境によらず、自分の思った通りのことをする」

ことだとしましょう。

 

その書道教室の場において、先生がルールであり、価値観の設定者です。

 

静かで、無言を先生が好ましいと先生が思うなら、それが正解だし、

良い書かどうかも先生の判断によります

 

そんな環境の中にあって、しんちゃんは縦横無尽のその価値観やルールから逃れていきます。

 

その様がドゥルーズが提唱した「リゾーム」、つまり樹木が地下で生き延びるために根を伸ばすように自由自在に価値観や行動をして生き延びる様を表していることを体現している、と思います。

 

その反面、その様を「自由すぎる」と言い放つ、書道家先生に世の親であったり、教育者等の姿がダブってしまいました。

※その中には自分もダブります^^;

 

「自由すぎる」と言ってしまいそうになる時、自分は価値観の枠組みの囚われの身ではないか?あるいは、その枠組みに誰かを押し込めようとしていないか?

 

と問うてみる機会ではないかと考えます。

 

子どもにもこんなことを思っている、というのを伝えてみようと思います。

 

Anja-#pray for ukraine# #helping hands# stop the warによるPixabayからの画像 

 

 

 

誰かが仕掛ける二項対立に気をつけろ

二項対立はその他を排除する暴力を持っている?

 

世の中、AかBかのように二項対立を示すケースは多いですよね

 

白黒つけるなんて言葉もありますし。

 

ある記事を読んでいて、なるほどと感じたのがアメリカの共和党民主党のカラーの話です。

 

最近の大統領選では共和党はレッド、民主党がブルーというのが定番ですね。

 

似たようなところで言えば、早稲田の赤、慶応の青でしょうか。

 

赤と青、暖色と寒色の違いもあってか、認識がしやすくなるように思います。

 

その程度で考えていましたが、そこには少し怖い意味もあるように感じました。

 

アメリカの政党は共和党民主党だけでなく、もっとあります。

 

Wikiでみてみても有象無象と・・・

 

ja.wikipedia.org

 

しかし、正直、国外の我々には共和党民主党のどちらか?

しか認識できません。

 

それをさらに赤か青か、共和党民主党か、いずれかの二項対立のような情勢を演出しているのではないか?

 

そのように感じます。

 

そうするとどうなるのか?

 

その他の政党や主張があるのに、排除されてしまうわけです。

この多様性と言っている時代に、どちらかなわけがないでしょう。

でも、実際的にどちらかに収斂されていくわけです。

 

思い出すのは、郵政民営化の選挙。

反対すれば、自民党議員だろうと抵抗勢力として排除する。

 

大衆はわかりやすいものを好みます。

考えるの面倒臭いですものね。

 

でも、わかりやすさは思考停止を促す。

わかりやすい、特に二項対立的な主張が目に見えてきた時は警戒しましょう。

 

他はないのか?

その先に何が待つのか?

 

ちょっと距離を置いて、冷静に考えて・・・

 

Brigitte WernerによるPixabayからの画像 

 

 

 

スッピンがなぜニュース(ただしゴシップ)になるのか?

あるゴシップ的なメールマガジンの配信を見て、不思議に思いました。

 

“現役アイドルがスッピンを披露”

 

とある。え、これだけで記事になるの?

 

と疑問が生じました。

 

他者の、特にビジュアル的なものを売りにしているアイドルがスッピンを披露することにどんな需要があるのでしょうか?

 

哲学的観点から考えてみると・・・やはり、この手のものはあの人の観点になりますね。

バタイユ、です。

 

スッピンを披露することは、死の快楽を得ること。

しかも、見せる方も、見る方も。

 

スッピンを披露することが、記事になるということは、ある意味、ヌードを披露したりすることの相似なのだろうと思います。

本来、秘するもの、プライベートなものを披露する、ということです。

そのタブーを破るわけですね。

そこにまず死の快楽を得られる。

 

さらにそれを見る側、受け取る側も、相手のスッピンに接するという、日常において見てはいけないものを見てしまうというタブーを犯す。

また、相手に対して持っていたイメージはメイクした相手だったわけで、それを脱いでスッピンになるわけですが、さらにタブーを犯すことになります。

そこにダブルで死の快楽を得るわけです。

 

晒す方も、見る方も、死の快楽を求めて、ついつい公開し合うわけですね・・・

需給が一致しているから、自ずと記事にすることでも需要があるわけです。

 

これはこれで、興味ある人同士、好きにして・・・

という感じはしますが、問題は“慣れ”ということでしょう。

 

初めてのスッピンであれば話題になりますが、乱発したらお互い慣れてしまい快楽は得られなくなります。

そうすれば、刺激をアップする必要がありますから、行為はエスカレートしていく可能性があります。

その結果、人生が狂ってしまう人もいます・・・特に芸能界などは・・・

 

スッピンなどをネタにしましたが、迷惑系YouTuberやバカ動画犯罪なども同じ原理だと思われます。

 

死の快楽は本当に怖いな・・・と思います。

 

何か、タブー破りに興奮することがありましたら・・・ぜひ、お気をつけて・・・

 

Gerd AltmannによるPixabayからの画像

時間を充実させるには?

時間は人間の挑む謎の一つである。

 

手に取ることも感じることもできない。

ただただ、世界での取り決めに沿って、それに適応した時計にて表されているのを時刻と認識して、様々な日常に活かしているが、時、そして時間については触れることもできていない。

 

ベルクソンの提唱する「純粋持続」にそのヒントがあるだろうか?と考えた。

 

アイウエオのウだけ取り出しても、それが何かわからないが、前後の関係などからア行の中のウだと認識できる。

また、時そのものは何かわからず、その中で感じたり、考えたり、それを続けることで時間の流れを認識できる。

これらをふまえると、前後の流れから、そして、その時に何をしたかにより時間を感じることができるのである。

 

それを踏まえると、時間を充実させるためには何ができるだろうか?

 

どのような流れのなかにいるか?

何を考え、感じるか?

 

この2軸により時間を実感できることになるだろう。

どのような流れの中、例えば、

 

自分のためか?社会のためか?

消費なのか?生産なのか?

学びなのか?教えるのか?

癒すのか?傷つけるのか?

 

などなど、様々な流れかで時間は変わるだろう。

 

また、その流れの中で、何を考え、感じているか、おそらくはその深さや広さにもよって変わってくるだろう。

これから何を食べようか?と短時間の、ごく個人的なことを考えるのか?

世界をどうやって食べさせるか?と長期間の、地球的なことを考えるのか?

で深さも広さも変わってくる。

 

確かに、このようなことを意識すると時間の充実は変わりそうだ。

 

まずはそのようなことを考えてみることが、時間を充実することに活かせるだろうか。

 

引き続き、思索してみる。

Alexas_FotosによるPixabayからの画像

 

 

 

 

 

野外キャンプは自らを縛るものから脱する機会

GWということで、野外キャンプに行ってきました。

 

野外キャンプはシステム外を味わう時空間である。

改めて、そのように思いました。

 

整備されたロッジではあったものの、周囲の自然環境は人間のコントロールの外にあります。

 

気温や湿度、鳥や虫の音、風、そして調理に使う炎など、人間にはどうにもならないものと接する時間。意識して味わうことで、とても豊かな感覚を味わえます。

そして、エネルギーをいただける感じがありますね。

 

日々、人間は何らかの社会システムの中にがんじがらめにされています。

 

例えば、通勤を電車するならば、交通運行システムをはじめ、暗黙のルール、時間など。

会社につけば、また会社の文化、空気感などに支配されています。

 

その結果、大変効率的に運用されているとも言えるし、社会システムにエネルギーを搾取されている。そのようにも感じます。

 

この様々に取り囲むシステムの外に出ると、そこは無法状態、生きるのもなかなかしんどい世界です。

だから、人はシステムの中で適用しようとします。

過剰適用は自粛警察などでしょう。

 

しかし、システムの中にいれば、人は生のエネルギーをどんどん搾取されていき、枯れていきます。

社会システムにエネルギーを搾取されるとどうなるか?

自ら選択できない、判断できない、考えることができない、そのような状態になってしまうでしょう。

閑散とする屋外でマスクをしたり、何も考えずに消毒”しちゃってる”人は要注意かもしれません。

無意識がシステムに乗っ取られるているのかもしれない。疑ってかかって方が良いです。

 

そんな中、自分を縛るものが少ない、そして、より大きな自然システムの中に還ることができる野外キャンプは大事機会です。

※無論、キャンプすること自体も社会システムに絡め取られているのでありますが

 

本当は猟師のように山籠りするのが、より生の実感を伴った体験にはなるのでしょうけど、それはなかなか難しいので、まずは簡単なキャンプででも、自分を日常から縛っているシステムから解放しましょう。

 

そうすれば、より自分を縛っているシステムの存在も明確に見えてきます。

認識できれば扱える。

 

GWも終盤ですが、良い1日を!

 

<告知>

私も学ばせていただいている西洋哲学塾のオンラインガイダンスが5/13に追加されたとのこと。

より厳しさを増す世相を生き延びるための智慧を学ぶ機会として、ぜひ参考にされてください。ガイダンスだけでも、視点がガラリと変わることは保証します)

(紹介者に“てらぽん”と書いていただけるとスムーズです)

 

seiyou-tetsugaku.com

 

 

なぜ、この業界から人が逃げていくのか?

テレビ業界は、沈みゆく巨船なのか・・・

 

東スポWebにこのような情報がありました

 

www.msn.com

 

早期退職を募集しているので、実力や自信のある方から抜けていくのは仕方ないと思います。

 

ところが、転職先は配信業界、つまり配信する手法がテレビの地上波ではなく、オンライン業界に転職する人が多いのではないか?という見立てなのですね。

 

テレビやネットなどお笑い界を取り巻く環境の変化の話題となり、東野は「純粋にお笑い番組を今地上波でやってるかって言ったら、なかなか厳しいやん。なら、ユーチューブとか、ネットフリックスやアマゾンプライムになっちゃうってところがある」と指摘。

 

なぜ、ネット業界ではできて、地上波業界のテレビ局ではできないのか?

 

素人の考えでも、

・地上波は総務省管轄で規制があるので、倫理規程などが厳しい

・スポンサーの力が絶対なので、世間のマイナスな反応は許されない

・テレビのスイッチを入れれば老若男女、誰でも見ることができから、せいぜい時間ぐらいでしかコンテンツの差異をつけられない

 

⇨ゆえに、“攻めた”作品は作りづらく、結果として常識にのっぺりとしたものしかできない

 

その観点から見れば、制作する側は世間の常識のキワ、ギリギリを狙うような苦労をしなければいけない、しかも、キワを超えて一旦炎上すると取り返しがつかない。

 

そうならざる得ないわけですね・・・

これは才能のある人ほど、辞めたくなってしまうのも無理ないでしょう

 

そのような様子を見て、ドゥルーズ「社会公理系」という概念を想起します。

 

人間は欲望の機械と言って良いほど、自らの欲望を満たそうとします。

しかし、それでは生き残りをかけたバトルロワイヤルのような状況になってしまいます。

そうならないために暗黙のルールが作られていきます。

それが「社会公理系」です。

 

それは法律などに明文化されることもあれば、村のしきたりのように暗黙の了解で存在したりすることもあります。

皆の欲望をコントロールするために、「社会公理系」は変化していく。

そのことが規制される側としては、非常に厳しい。

作品を作って、世に出したあと、「これはダメだ」と非難される可能性があるからです。

 

昨今の過去のセクハラを糾弾される「me too」事案も同じなのでしょう。

今の価値基準や倫理により断罪されています。

あの当時はOKだったのに・・・という言い訳は効かない。

当時の雰囲気に寄りかかっていた人は生きた心地がしないでしょうね・・・

 

テレビ業界の話に戻れば、規制産業やスポンサーの話もありますが、本質的には「社会公理系」に縛られているため、窮屈すぎて仕方ないし、「社会公理系」に従ってのっぺりとしたコンテンツばかりを作っていれば、自然と誰も見なくなる。

 

悪循環の渦中にいるように見えてきます。

 

これはテレビ業界に限った話ではなく、新聞業界など従来のメディアは同様なのだろうと思います。

 

「社会公理系」を逃れるためには、遊牧民のように新たな牧草地を目指していくしかありません。

しかし、当然ながら、YouTubeなどのオンラインメディアもNetflixのようなオンラインコンテンツも「社会公理系」が充満しレくれば、いずれ規制が入り、つまらなくなります。

そうすれば、また新たな牧草地を目指すしかなくなる。

 

それは見えている人は次なる牧草地、リアルに戻った会員制ライブ型なのか、あるいはメタバースなのか、に新たな土台を作りにいくのだろうな、ということが見えてきますね。

 

世間を騒がす炎上案件が「社会公理系」の侵入の合図かもしれません。

 

今後、引き続き、よく観察していこうと思います。

退職



 

 

 

 

 

 

自然哲学の時代

「万物の根源は!」

 

きっと高らかに哲学者たちは主張していたであろう自然哲学の時代。

 

万物の根源を問うことは、世界を征服することだったのだろう。

だって、万物の根源がわかるということは、世界の始まりを知ることにつながるからだ。

 

万物の根源は水!

 

万物の根源は空気!

 

万物の根源は無限なるもの!

 

万物の根源が数である!

 

まさに言ったもの勝ちな世界。

大喜利にも近そうだ。

 

おそらく、それ自体ではなく、それを最もらしく感じさせる言説が大事だったのではないだろうか?

 

万物の根源は人の意志である!

 

としてみよう。

 

か弱き人間と大いなる自然、という対立軸があったのではないかと思う、この時代。

意志なんてものは、自然に蹂躙されるであろう小さきものだと思う。

 

だけど、意志ある人間がいなければ、自然も認識されないだろうし、意志をもって建物や橋などが造られているから、災害などで自然の脅威を感じることができる。

 

つまり、万物はそれそのままに存在していたかもしれないが、人が意志を持ったから、それはそれとして認識され、存在できている、としたらどうだろう。

 

などと、当時の広場で披露しあっていたのだろうか。

 

対話のコンテンツとしては面白い、と書いてみて思った。

 

ただ……

 

だから何?という気持ちも拭えない。

きっと、色々な主張が飛び交い、最初は熱狂していたものの、後半は飽きがきたんじゃないかと推察する。

 

だから、

 

万物は流転する

 

など、上からマウンティングするような主張が出てきたのだろう・

 

議論は煮詰めてからが本番。

 

そのような感じが伝わってくる。

 

それにしても、こうして、当時の議論に思いを馳せるだけでも、人間のロマンのようなものを感じることができる。

 

万物を考えることは、人間の歴史を考えること。

 

また、考えてみたい。