自然哲学の時代
「万物の根源は!」
きっと高らかに哲学者たちは主張していたであろう自然哲学の時代。
万物の根源を問うことは、世界を征服することだったのだろう。
だって、万物の根源がわかるということは、世界の始まりを知ることにつながるからだ。
万物の根源は水!
万物の根源は空気!
万物の根源は無限なるもの!
万物の根源が数である!
まさに言ったもの勝ちな世界。
大喜利にも近そうだ。
おそらく、それ自体ではなく、それを最もらしく感じさせる言説が大事だったのではないだろうか?
万物の根源は人の意志である!
としてみよう。
か弱き人間と大いなる自然、という対立軸があったのではないかと思う、この時代。
意志なんてものは、自然に蹂躙されるであろう小さきものだと思う。
だけど、意志ある人間がいなければ、自然も認識されないだろうし、意志をもって建物や橋などが造られているから、災害などで自然の脅威を感じることができる。
つまり、万物はそれそのままに存在していたかもしれないが、人が意志を持ったから、それはそれとして認識され、存在できている、としたらどうだろう。
などと、当時の広場で披露しあっていたのだろうか。
対話のコンテンツとしては面白い、と書いてみて思った。
ただ……
だから何?という気持ちも拭えない。
きっと、色々な主張が飛び交い、最初は熱狂していたものの、後半は飽きがきたんじゃないかと推察する。
だから、
万物は流転する
など、上からマウンティングするような主張が出てきたのだろう・
議論は煮詰めてからが本番。
そのような感じが伝わってくる。
それにしても、こうして、当時の議論に思いを馳せるだけでも、人間のロマンのようなものを感じることができる。
万物を考えることは、人間の歴史を考えること。
また、考えてみたい。