“てらぽん”の西洋哲学と日常を重ねてみる探究日記

西洋哲学の視座から日常を眺めると何が見えてくるか?を探究した記録です。

時間を充実させるには?

時間は人間の挑む謎の一つである。

 

手に取ることも感じることもできない。

ただただ、世界での取り決めに沿って、それに適応した時計にて表されているのを時刻と認識して、様々な日常に活かしているが、時、そして時間については触れることもできていない。

 

ベルクソンの提唱する「純粋持続」にそのヒントがあるだろうか?と考えた。

 

アイウエオのウだけ取り出しても、それが何かわからないが、前後の関係などからア行の中のウだと認識できる。

また、時そのものは何かわからず、その中で感じたり、考えたり、それを続けることで時間の流れを認識できる。

これらをふまえると、前後の流れから、そして、その時に何をしたかにより時間を感じることができるのである。

 

それを踏まえると、時間を充実させるためには何ができるだろうか?

 

どのような流れのなかにいるか?

何を考え、感じるか?

 

この2軸により時間を実感できることになるだろう。

どのような流れの中、例えば、

 

自分のためか?社会のためか?

消費なのか?生産なのか?

学びなのか?教えるのか?

癒すのか?傷つけるのか?

 

などなど、様々な流れかで時間は変わるだろう。

 

また、その流れの中で、何を考え、感じているか、おそらくはその深さや広さにもよって変わってくるだろう。

これから何を食べようか?と短時間の、ごく個人的なことを考えるのか?

世界をどうやって食べさせるか?と長期間の、地球的なことを考えるのか?

で深さも広さも変わってくる。

 

確かに、このようなことを意識すると時間の充実は変わりそうだ。

 

まずはそのようなことを考えてみることが、時間を充実することに活かせるだろうか。

 

引き続き、思索してみる。

Alexas_FotosによるPixabayからの画像