“てらぽん”の西洋哲学と日常を重ねてみる探究日記

西洋哲学の視座から日常を眺めると何が見えてくるか?を探究した記録です。

スッピンがなぜニュース(ただしゴシップ)になるのか?

あるゴシップ的なメールマガジンの配信を見て、不思議に思いました。

 

“現役アイドルがスッピンを披露”

 

とある。え、これだけで記事になるの?

 

と疑問が生じました。

 

他者の、特にビジュアル的なものを売りにしているアイドルがスッピンを披露することにどんな需要があるのでしょうか?

 

哲学的観点から考えてみると・・・やはり、この手のものはあの人の観点になりますね。

バタイユ、です。

 

スッピンを披露することは、死の快楽を得ること。

しかも、見せる方も、見る方も。

 

スッピンを披露することが、記事になるということは、ある意味、ヌードを披露したりすることの相似なのだろうと思います。

本来、秘するもの、プライベートなものを披露する、ということです。

そのタブーを破るわけですね。

そこにまず死の快楽を得られる。

 

さらにそれを見る側、受け取る側も、相手のスッピンに接するという、日常において見てはいけないものを見てしまうというタブーを犯す。

また、相手に対して持っていたイメージはメイクした相手だったわけで、それを脱いでスッピンになるわけですが、さらにタブーを犯すことになります。

そこにダブルで死の快楽を得るわけです。

 

晒す方も、見る方も、死の快楽を求めて、ついつい公開し合うわけですね・・・

需給が一致しているから、自ずと記事にすることでも需要があるわけです。

 

これはこれで、興味ある人同士、好きにして・・・

という感じはしますが、問題は“慣れ”ということでしょう。

 

初めてのスッピンであれば話題になりますが、乱発したらお互い慣れてしまい快楽は得られなくなります。

そうすれば、刺激をアップする必要がありますから、行為はエスカレートしていく可能性があります。

その結果、人生が狂ってしまう人もいます・・・特に芸能界などは・・・

 

スッピンなどをネタにしましたが、迷惑系YouTuberやバカ動画犯罪なども同じ原理だと思われます。

 

死の快楽は本当に怖いな・・・と思います。

 

何か、タブー破りに興奮することがありましたら・・・ぜひ、お気をつけて・・・

 

Gerd AltmannによるPixabayからの画像