“てらぽん”の西洋哲学と日常を重ねてみる探究日記

西洋哲学の視座から日常を眺めると何が見えてくるか?を探究した記録です。

何が子どもたちを傷つけるのか?

「他の人と比べて、劣っているってわかったら傷つくから、集団でなくて個人がいい」

 

小学生の娘が言った。

中学受験の塾選びについての会話だった。

 

冒頭の理由により集団指導ではなくて、個別指導スタイルの塾がいい、と。

 

しかし、どうにもその理由が、自分の中では納得感が低いものだった。

 

世の中、自分よりも優秀な人はごまんといて、大人になっても「あー自分はダメだなぁ〜」と劣等感に駆られ、しかし、それが原動力となって新たな学びや実践に向かうこともある。

 

人は他人との差異でしか自分を知ることはできない。

それはソシュールも言っているわけで、差異に気づくのは悪いことではない。

 

ただ・・・

 

理解できなかったのは、

 

「劣っていること」に気づくことで、「傷つく」

 

という言葉の繋がりだった。

 

「劣っている」からと言って、

なぜ、「傷つく」のか?

 

なぜ、そのような繋がりになるのだろう?

 

例えば、スポーツが顕著な例だ。

 

プロスポーツは皆、素晴らしいプレーをするし、目指している。

だからと言って、傷つかない。そのプレーに感動して、賞賛はすれど。

 

しかし、学業の成績においては、傷つくのである。

 

なぜだろう?

 

学業の成績がいい=優れた人 

 

であり、

 

学業の成績が悪い=劣った人

 

という意味づけをされているからだろうか?

 

それだけではない。

 

優れた人には、明るい未来(良い学校⇨良い会社⇨良い収入)

 

が待っていて、

 

劣った人には、悪い未来(悪い学校⇨悪い会社⇨悪い収入)

 

という未来からの意味づけがなされ、劣っている=悪い未来を受け入れる

ということが辛いのかもしれない。

 

スポーツでは、自分が当事者として関与することのないバーチャルな世界の優劣の生み出すドラマに感動するが、

学業では、自分が参加せねばならないリアルなドラマで、自分にも影響も受けるから、臨場感が高まり、辛いのかもしれない。

 

そんなことを感じているのは我が子だけだろうか?

他の子たちも感じているのだとしたら、なんと苦しい優劣の二項対立の中でサバイブさせられているのだろうと悲しくなってしまった。

 

我が子とは話し合いたい。

 

優は劣に依存することを。

劣がいなければ、優は本来存在しえない。

 

では、どこで優劣の線を引くのか?誰が線を引くのか?

それは本人たちの関係ないところで知らない大人たちが線を引き合っているだけだ、と。

誰かが勝手に引いた線に傷つくことなどないのだ、と。

 

そんな勝手な線に怯えることなく、自らの理解を促進する最適な選択をすればいい、と。

それで個人がいいなら個人、集団がいいなら集団。

自信を持って選ぼうと。

 

子どもの反応は社会の集団思考バロメーターかもしれない、と改めて思った。

 

引き続き、良く観察していこう。

 

Gerd AltmannによるPixabayからの画像