“てらぽん”の西洋哲学と日常を重ねてみる探究日記

西洋哲学の視座から日常を眺めると何が見えてくるか?を探究した記録です。

コーチングはプロレスか?

言語分析の観点に立てば、言葉の意味は双方が合意しなければ成り立ちません。

言葉に真の意味などないので。

 

そのように考えると、様々なコミュニケーションは前提の擦り合わせが大事です。

外国で言葉が通じないのは、発音や単語がわからないのではなく、その前提が合っていないからと言う面が強いと考えます。

 

そんなことを先日、コーチングのセッションをしながら考えていました。

 

コーチングで大切なことは何か?

 

傾聴する力、質問する力などはもちろんあるのですが、言語分析の観点に立つならば、場の設定ではないか、と考えます。

 

コーチングとは、お互いの場の設定

 

と言っても言い過ぎではないのかもしれません。

 

その様は、明文化されていなくても、ロープに投げたら戻ってくる、そして技を受けることに美学のあるプロレスにも似ているのだろうと思います。

 

このコーチングセッションは、

何を目指す場か

どのような方法でそれを行うか

お互いの約束事は何か

 

それをしっかり擦り合わせなければ、その後の会話は意味が通じないため、機能しないでしょう。

また、話が迷走するのも場の設定が合わなくなっているからと考えられます。

 

友人コーチからたまに聞くのは、

「クライアントが心を開いてくれない。だから会話が進まず、契約も解除されそうだ」

、と。

 

以前は、

 

「人間だもの、仕方ないよね」

 

と考えていたのですが、哲学を学び、「場の設定」と言う観点に立ったならば、それは

 

「そもそもあなたの場の設定が誤っているのでは?」

 

と考えるようになりました。

 

それはプロレスに対してストリートファイトのようなルール無法の観点から「真剣勝負じゃない!」と喚いているようなものです。

お互いの合意が取れていないから、心も開いてくれず、会話もしてくれない、のではないか?と。

 

友人コーチに伝えるとするならば、クライアントに対してすべきことは不満を溜めることではなく、

コーチングをするにあたっての合意を実行してくれていない、今のあなたに起きていることはなんですか?」

でしょうか。

 

クライアントが機能するコーチングを提供したいなら、場の設定からやり直すしかないのです。

それが合意されてなければ、いかに素晴らしい質問をしようと機能しないでしょう。

その質問の言葉を支える構造がないのですから。

 

これは、職場の上司関係でも、親子関係でも使える観点だと思います。

 

「関係性は自ずとあるもの」

 

と思うのか、

 

「関係性は創作されるもの」

と捉えるかで世界の見え方は変わりますから。

 

このあたりは、また書いてみたいと思います。