“てらぽん”の西洋哲学と日常を重ねてみる探究日記

西洋哲学の視座から日常を眺めると何が見えてくるか?を探究した記録です。

友人とはなにか? 一つの仮説

こちらの本を読み進めていますが、とても興味深い。

 

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活きた抽象と具体の達人の 細矢さんと、凄まじい観察力と表現力で現実を切り取る佐渡島さんの知的会話のセッションが絶妙です。

 

色々と切り取りたいのですが、冒頭文にこのような記載があります。

 

引用します。

 

友人とは、趣味が一緒の人ではなく、会話の抽象度が一緒の人である。知人が、そんなふうに友人を定義していたのだけれども、まさに、細谷さんは会話の抽象度が合う人だった。楽しみながら、いろいろな話題について話した。

 

友人とは、

 

会話の抽象度が一緒の人

 

であると。

大変興味深い定義ですね。

 

もっと言えば、抽象度が揃いやすく、それでいて、高い抽象度に徐々に上がっていく人なのだろうと思います。

 

それにしても、なぜ抽象度なのでしょう?

なぜ、言葉なのでしょう?

 

一般的にノリがあうとか、ウマが合うとか、どちらかという、感性の部分に焦点があたりがちです。

 

言葉はむしろ逆にオマケ的なことで考えてしまいそうです。

 

でも、確かに考えていけば、言葉であり、その言葉の意味づけである抽象度になるのだろうと思います。

 

なぜか?

 

人は言葉の意味づけを類似性に基づいて行います。

 

犬、といえば、柴犬、ブルドックなどタイプは違えど、それぞれに過去の見聞きし、触れた経験で持って「あんなものね」とイメージして意味づけします。

 

その

 

「あんなものね」

 

が類似性です。

 

つまり抽象度が合う、一緒ということは、過去の経験や体験が同じである可能性が高い、ということですね。

 

ゆえ、話も合いやすいし、弾みやすくなるでしょう。

 

その意味で、

 

友人とは会話の抽象度が一緒の人

 

というのは原理に近いのかもしれません。

 

それは恋人探しにも通じるものがあるでしょう。

 

無論、フィーリングや一目惚れのようなこともあります。

これも、細かく見ていけば、言葉の世界になりますが、それでも言葉を超越して本能に触れる部分もあるのでしょう。

 

だけど、その後のコミュニケーションは言葉になるので、結果として、抽象度が合わない人とは長続きしないことになります。

 

言葉から友人関係を見ていく、というアプローチを探究していくと案外に面白いものでした。

 

逆に友達作り、文脈作りとは抽象度合わせとも言えますよね。

 

ちなみに抽象度の特性として、低いところから高いところに合わせるのは無理とは言いませんが、至難の業です。

 

それに対して、高いところから低いところに合わせるのは、それに比べると難しくありません。合わせる気があれば。

 

言葉遣いとは、関係性である。

 

この観点からコーチングなども考えいくと面白いですが、それはまた探究したいと思います。