“てらぽん”の西洋哲学と日常を重ねてみる探究日記

西洋哲学の視座から日常を眺めると何が見えてくるか?を探究した記録です。

競争がなくなってはいけないメカニズム

競争は進歩のエンジン

 

そうだったのかと、ある経済学者の対談を見ながら、今更ながら思いました。

 

ただ、競争というものが、様々に解釈され、競争自体が目的化され、形骸化しているのも現実としてあります。

 

その結果、

 

競争=悪

 

のようにもなっている風潮もあります。

 

競争がなければ、様々なテクノロジーもおそらくは生まれず、サービスの高度化もなかったでしょう。

その辺りは社会主義、というよりも社会共産主義の壮大な実験を見ていれば、素人目にも明らかです。

 

この競争、というメカニズムがあるから資本主義は連綿と生き残ってきたのだろうと思います。

 

進化しなければ生き残れない

 

という話と競争が結びつけられてしまう気もしますが、それは拡大解釈であり、本来の意味として健全に切磋琢磨し合うものだったのはないでしょうか。

 

さて、何を思ったこんなことを書いたのかというと、小学校などを見ている競争することは良くない、競争で負けた方が気づくから

 

そんな文脈をよく見かけます。

また、我が子の活動を見ていてもそんな兆候があります。

さすが、手を繋いで一緒にゴールは見ませんでしたが。

 

先日の記事にも書きましたが、

 

比較は積極的に行うべきです。

大事なのはその立ち位置を知った後にどうしたいかであって、評価している暇はない。

 

なので、比較のためにも競争は大事だと思います。

 

ただ、競争というもの、その場そのものは競争の勝者ではなく、敗者が決める場になります。

敗者なくば、勝者はいません。

そして、本来ならば、多大な権力を持つ敗者の心情に阿る結果、競争の場がなくなる、というのが最近の病ではないかと思います。

その結果、進歩が生まれなくなってしまう。

 

だから、敗者の権力の自覚、というものを広める必要があるのではと思いました。

 

子どもたちも、遊びの中で、

「負けるの嫌だから、イチ抜けた」

とその場で負けることをドロップしたら、場は成立しなくなってしまいます。

 

それほど、敗者という立場は権力があるのです。

 

逆に君主論的に考えれば、君主が勝者で、民衆が敗者なのであれば、敗者の権力に対する自覚を持たせない、気づかせない仕組みを組み込まないといけないですよね。

 

ちょっと横道にそれましたが、これからの必要なのは勝者になるべく教育するのではなく、競争が維持されるように敗者を引き受ける自覚を育む必要があると思ったのでした。それが結果として、人であり、市場であり、国の器を大きくしていくのではないかなと考えます。

 

徒然なるままに・・・

 

Clker-Free-Vector-ImagesによるPixabayからの画像