“てらぽん”の西洋哲学と日常を重ねてみる探究日記

西洋哲学の視座から日常を眺めると何が見えてくるか?を探究した記録です。

普遍的な悪など存在するのか?

ある尊敬する方にお勧めされて、こちらの本を読んでいます。

 

 

実は以前にも購入していたのですが、その時はあまり響いていませんでした。

ゆえに、Amazonの購入記録を見るまで、買っていたことすら忘れていました。

 

哲学を学んだ上で、読み返すと、目からウロコが落ちまくりなことに気づきました。

 

例えば、こちらの一文

 

自分の身を保とうと思う君主(指導者)は、悪しき者であることを学ぶべきであり、しかもそれを必要に応じて使ったり使わなかったりする技術も、会得すべきなのである。

 

ぱっと読むと、処世術的に、自分をその状況に応じて使い分ける、ある意味で、ずる賢い君主を目指せ、というように読めてしまいます。

 

でも、哲学的観点からだと、また違った見え方ができます。

 

そもそも悪とは何か、善とは何か。

 

デリダが提唱するように、

 

正常は異常が規定する

 

わけですね。

 

けして、普遍的な悪があるわけではなく、善があるわけでもない

 

だから、悪しきものであることを知るとは、善と悪の境界線がどこにあるかメタ認知せよ、というわけです。

もっと言えば、その境界線を意図して動かすことも大事になるのだろうと思います。

 

大衆が善と思っていることを壊す

 

あるいは、

 

大衆が悪と思っていることを善に変える

 

どちらも意図して動かすことで、インパクトはかなり生まれるはずです。

 

そのように、この一文も、

 

何をなすか?

 

ではなく、

 

何を観るか?

 

の観点から見ると興味深いですね。

 

自分、自分達にとっての善悪の境界線はどこにあるのか?

それを権威づけているものは何か?

 

を問うていくことが、権力を保つためには必要、ということでしょうか。

 

それをこの一文から学び取りました。

 

ページを捲るたびに学び多発なので、また、分析したいと思います。

 

 

 

 

 

人と比較してはダメ…は駄目じゃないかも

新学年が始まって、少し落ち着いてきたのか、体育の授業は運動能力測定が合っているようです。

 

子どもたちから、

 

「身体測定、〇〇君に50m走で負けるから嫌だなぁー」

 

などと聞きます。

 

これまでは、

 

「人と比較してはダメだよ。過去の自分からどうなったかを見たらいい」

と伝えていましたが、ふと、それは一面違うのではないか?

と湧いてきました。

 

ソシュールによると、言葉の意味は、それ以外で決まるもの。

差異があって意味が生じます。

だから、いくら自分を探しても自分は見つからず、取り巻く環境、関わる人の存在により自分を知ることができるのです。

 

だとするならば、

 

他者と比較することで、自分が見えてきます

 

シンプルに考えれば、それはそうですよね。

 

一人だけ50m走の記録をとっても、それが速いのか、遅いのかもわからない。

それがわからなければ、もっとトレーニングしたほうがいいのかどうかも分かりません。

 

なので、比較は積極的にすべきものである、と気づきました。

 

ただし、それを踏まえての良し悪しの評価はやめたほうがいいでしょう。

ただただ、結果を見る、結果の位置付けをみる。

そして、向かいたい方向に努力をする。

 

だから、今後は、子どもたちについては、

 

・比較することで、自分の体力や筋力のレベルを確認できる大事な機会だよ

・だけど、その結果に対して優れているとか劣っているとか評価をするのは時間の無駄だよ

・他の人の結果で、自分もそこまで伸ばしたい!と思ったら、一緒にトレーニングを考えよう

 

と伝えたいと思います。

 

これは大人の世界も同じですね。

 

現状を知り、行きたいところがわかれば、あとはその現状からゴールに向かう構造に乗っかって取り組むだけです。

邪魔するのは、評価する自意識です。

そんなものは捨ててしまいましょう。時間泥棒なので。

 

こちらの本は参考になると思います。

 

 

 

 

問いで構造は暴かれる

MBA(旧西洋哲学塾)の講義がありました。

 

オンラインプレビュー – 西洋哲学塾

※もう受付は締め切っていますが、このLPだけでもかなり気づきや学びが多いので、ご参考まで

 

かなり学びと痛みある機会だったのですが、その中で、メタ認知の力を高めるため、問いの視点で活かしていきたい内容がありました。

(ここで書くのはほんの一部ですが)

 

自分なりの解釈で書いてみます。

倒錯的なところはあくまで、私の理解不足であり、MBA(旧西洋哲学塾)とコンテンツの品質のせいではありませんので、悪しからず。

 

基本的に言葉の特性と、二つ以上に分裂します。

 

有るが生まれれば、無いも生まれる

光があれば、闇がある

 

これは水平的視点ですが、垂直的視点も必要です。

 

見えていないものは、見えるものが支配する

知らないものは、知るものが支配する

ソクラテスは、それをひっくり返したとも言えますね)

 

抽象と具体の関係とも言えますね。

ピラミッド構造なわけです。

 

支配することが良いのかどうかは、言葉の解釈によりますが、ビジネスにおいては支配する側に立つのが有利になりやすいでしょう。

市場の決定権はたいてい上流にあります。

 

もう一つ、言葉の特性として、言葉の意味は関係性の中で生まれます。

そのものの意味でなくて、自分以外の他者がどう意味付けするかによって自分の意味が決まります。そして、それが価値になります。

 

とすれば、相手のことをより知っているものが相手のことを意味づけし、支配できることができるようになります。

 

例として、会社の上司と部下の関係で見ていきましょう。

 

一般的に上司は部下を支配しています。

支配、という言葉がきつければ、管理でもいいです。

言動をコントロールできる力程度で考えてください。

 

最近は、かなり変わってもいますが、上司は一般的に部下よりも知識も経験も豊富で求める成果を生み出すことができることから、上司となっています。

 

では部下が上司を逆に支配するにはどうすればいいでしょうか?

 

頑張って出世して、会社のヒエラルキー的に上司よりも上位の役職につく、というのはありますね。

その時点で上司と部下の役割は入れ替わってしまいます。

 

少し条件を絞って、

 

現在の役割のまま、部下が上司を支配するにはどうすればいいか?

 

と考えてみます。

 

色々とアイデアを考えてみましょう。

 

OpenClipart-VectorsによるPixabayからの画像

 

笑える方法から、えげつない方法まで色々とあるはずです。

気分悪くなるといけないので、ここには書きませんが・・・

 

そのアイデアを見ていただくと、何か見えてこないでしょうか?

 

おそらくですが・・・情報なり、力なり、上司よりも高い領域を見ていないでしょうか?

 

例えば、権力ならば、例えば、上司の上司とネンゴロになるとか、スポンサーを味方につけるとか。

つまり上司よりも上の領域を視界に入れることになります。

 

何が決定打になるかは状況次第ですが、上位を視界に入れる、特に支配したい対象よりも上位を視野に入れることが大事です。

 

ところで、内容の源泉はなんでしょうか?

何があれば、このようなことに必要なことがわかるでしょうか?

 

 

そうです。

 

現在の役割のまま、上司を部下が支配するにはどうすればいいか?

 

という問いですね。

 

問いにより、それまで見えていなかった領域が見えてきました。

あとは、その領域からアイデアを抽出してくるだけです。

 

見えてくれば、抽出できます。

でも、問わなければ見えない。

見えなければ、扱えない。

 

これが問いの力であり、怖さでもあります。

 

そして、社会公理系(現状の社会のルール)は、その問いを発しないようにあの手この手を用いています。

これまでの学校教育もその役割があります。

だから、意識しないと、いや、意識していても問いは見つからなかったりします。

偏光レンズにより、見えていないことに気づけないように。

 

だから、見えていないという前提で問いを空振りでも、数多く作ることが大事になります。幸い、あろうがなかろうが、言葉にはできる。

 

私も社会公理系に毒されていますから、意識して問いを作っていこうと思います。

 

それでも多少は有効度を上げようとするならばポイントは、

 

誰にとっても当たり前だと思われていること

 

を問うていくことでしょうか。

当たり前の裏には当たり前じゃないことが控えています。

 

探偵団のように問いのルーペをかざして観察していこうと思います。

ただ、問いすぎて、排除されないようには気を付けてくださいね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

こうして世論は捏造されていく。そして、さらにノッペリとした国に

気になるニュースがありました。

 

テレビ放送からみで

 

www.sankei.com

 

要は合意しているといえど痛みや嫌なことをさせて笑いを取ったり、予告なしにドッキリさせることで笑いをとるのはいかがなものか?

 

と、BPOは言っているのですね。

 

そして、興味深かったのがこちらのコメントです。

 

news.nifty.com

 

要はそのような場面を経験しにくくなっているから、若手芸人は大変だろう、という意見ですね。

人が驚いたり、嫌だと思う場面を通じて、芸人は磨かれる、ということでしょう。

 

これはどの立場からみるかで意見は分裂しそうです。

 

一つは「他者の感情」を商売にするのが適切なのか?

という観点はあるかと思います。

 

もう一つが、「ネガティブな場面を通じて磨かれることはなんなのか?」

という観点もあろうかと。

 

「昔は接待の場面でこんなことして・・・」

など武勇伝的な話も、結局は皆が嫌だろうという場面を切り抜けてきたから語れるわけで、必要悪として存在していた、とも言えるだろうと思います。

 

私も、芸能人の不倫だtたり、おバカな振る舞いニュースを見ても「それが芸の肥やしだろ」と思ってしまいますが、肥やしを知らない世代には通じないのでしょうね。

 

その他にもあると思うのですが、一つ大事な観点は「どんな世界観を持つか」ではないかなと思います。

 

・世界には秩序がある

・世界には秩序はない

 

と捉えるかで、今回の問題も扱いが変わります。

 

今の日本はなんとなく、

 

(誰が作っているかはわからないけれど)世界には秩序がある

 

というスタンスなんではないでしょうか?

 

括弧の中が大事なんですが。

 

そう考えると、ケンコバさんの心情は分かりつつも、おそらくはそのような番組は縮小の方向で進んでいくのだろうと思います。

だって、社会がそちらに向かうのならば、スポンサーがつかなくなりますし。

 

そして、凸凹を失い、また社会がノッペリとしていくでしょう。

 

良いか悪いかは私たち次第。

個人的には「多様性とはなんだろうか?」と思ったりもしますが。

 

Gordon JohnsonによるPixabayからの画像



 

あなたは誰の許可を待っているのか?

屋外ではマスクを外していいのでは?

 

www.fnn.jp

 

という情報が出てきだしました。良い傾向です。

このまま弱毒化したままを維持して、のらりくらりと収束をむかえてくれるといいのですが・・・

 

そのような情報と共に、ふと気になっていることがあります。

 

マスク着用については、強制する法律などもない中、「自主規制」にて対応をしていました。それが日本の連帯意識だとも。

 

しかし、その結果、目に見える形でバイオパワー(生権力)、つまりパノプティコンの中に押し込められていたことも痛感します。

 

それと関連するのもかしれない気になる事象もあります。

 

コロナ以降、特に子どもから

 

「●●していい?」

 

と許可取りの問いをもらうことが増えた気がします。

 

例えば、トイレだったり。

 

外出時に突然トイレに消えられても困るので、一声をかけてもらう必要はありますが、許可取りはいりません。

 

「子どもがそのようにするのには、こちらがそのようにするように促している」

 

と考えた方が妥当なので、それは意識して変えていくのですが、学校や外出時の様子を見ていても、そのような許可取りをするよう子が多いように思います。

 

マスクを自然体でしてしまうことと同様に、何か世間の目、それも見えない目を恐れているのでしょうか?

 

この辺り、我が子も含め、観察を強めてみたいと思います。

いや、社会人でも起きているのかもしれませんね。

 

許可取りする人

 

観察してみます。

 

Clker-Free-Vector-ImagesによるPixabayからの画像

 

 

 

 

事実と根拠だけを見よ!混迷の時間の道標

ロシア・ウクライナの状況や価格の高騰に目を奪われているうちに、スリランカが大変なことになっています。

 

 

無論、スリランカの規模であれば、世界中へのインパクトはそれほどではないにして、今後はこのような事態が世界各国、そして、日本国内の自治体でも起きてくるのだろうと推察します。

 

そんな中、どうあるべきか?

 

一つは哲学が指針になると思いますが、その中でも、ラッセルの言葉が響きましたので共有いたします。

 

 

バートランド・ラッセルの言葉

www.openculture.com

あなたが何かを研究しているとき、または哲学を考えているときは
事実とは何か、そして事実が裏付けている真実は何かだけを自問してください。

あなたが信じたいこと、またはそれが信じられた場合に有益な社会的効果をもたらすと
あなたが考えることから自分自身をそらす必要は決してないにしても、事実だけを見てください。

 

混乱してくると流布される伝聞が増えてきます。

そこには「コロナが収束するらしいよ」「ワクチンが完成したよ」など希望の成分がふんだんに入った伝聞が増えてきますが、右往左往している場合ではないですよね。

 

ぜひ、ラッセルの言葉を意識して、

 

事実は何か?

それを支える根拠は?

 

を意識できればと思います。

 

振り返れば、混迷じゃない時代なんてないんだと思います。

 

サバイブしていきましょう。

 

 

メタ認知“だけ“が大事なわけじゃない

混迷深まる現代社会、前例の通用しない時代だからこそ、哲学、もっと具体化すれば「メタ認知」が必要になります。

 

その結果、あちこちでメタ認知という言葉が飛び交っています。

猫も杓子もメタ認知

 

メタ認知とは何か?

 

端的には

 

認知していることを認知すること

 

ですが、もう少し言えば、

 

その認知をさせている構造(前提、背景、意味など)を認識すること

 

と言ってもいいでしょうか。

 

答えのない現代社会だから、確かに大事なことですね。

 

しかし・・・

 

それは絶対的に良いこと、などということはありません。

デメリットもしっかり認識した上で扱わなければ、道具に使われることになります。

 

メタ認知することのデメリットはなんでしょうか?

 

メリットは何かというと、客観的に慣れること

人間の機能に引き当てて考える、客観的になれることは、感情的になることを抑制してくれるということですね。

つまり、物事と自分自身が同一化すること、主観的に陥ることを防いでくれます。

 

ではデメリットは?

 

客観的ゆえ、行動が伴いにくい、つまり、実践、実行につながらない

 

ということですね。

 

岡目八目、という言葉があります。

 

将棋や囲碁などは指しあっている本人たちよりも、周りから見ている人の方が状況や適切な手がわかる、八手先(八目)までわかる

 

ということを指しています。

これなどメタ認知の最たるメリットを指しています。

 

しかし、デメリットの本質もここにあります。

 

見ている人は指している人ではない、ということです。

いくら見えても、直接的には影響できないのですね。アドバイスぐらいはできるでしょうけど。

 

そう考えると、メタ認知が大事!というのは、

 

客観的 > 主観的

 

という文脈で扱われますが、

 

実際、現実を動かすためには、

 

主観的 > 客観的

 

にならざるえないということです。

 

このことを認識して、メタ認知を意識するのか、”メタ認知はとにかく大事!”と盲目化するのかでは雲泥の差ですね。

 

ウォームハート クールヘッド

 

とも言いますが、

 

大事なのは現実に接する主観的なもの、つまり感情であり言動のために、

メタ認知など客観的なものを扱うが必要がある

 

ということですね。

 

客観的な思考も大事などけど、主観的な感情、言動もいかに扱うか

 

ここを並行して考え、鍛えていく必要がありますね

 

メタ認知は道具!

 

肝に銘じておきたいと思います

 

 

 

 

 

Gordon JohnsonによるPixabayからの画像