“てらぽん”の西洋哲学と日常を重ねてみる探究日記

西洋哲学の視座から日常を眺めると何が見えてくるか?を探究した記録です。

やる気は大事。と、なんでそうなったのか?

日本人の仕事に対するやる気は低い、という情報がありました。

 

www3.nhk.or.jp

 

自虐的観点を持たされてしまっていると、

 

そうだよね、やる気もないし、日本はダメだね・・・

 

という思考を固めてしまうのではないかと心配になりましたので、ちょっと疑ってみたいと思います。

 

やる気は低い⇨生産性が低い あるいは 収益性は低い

 

逆に、

 

やる気が高まる⇨生産性が高まる 収益性が高まる

 

というような論理にしたいのかな、というのが見えてきます。

 

コンサル会社も出てきているので、

 

やっぱりやる気は大事だ!

 

というような流れに持っていきたいのは、よく見えてきます。

 

ここで、そもそもで確認したいのは、

 

やる気とは何か?

 

ということです。

 

やる気を説明してください、と言うと

 

取り組む姿勢が前向きなこと

 

やりたいと言う気持ち

 

モチベーションの高い感情

 

など様々な解釈が出てくるでしょう。

 

そこで改めて問います。

 

やる気、そのものを見せてください

 

ソクラテスの問いですね。

 

当然、そんなものはないわけです。

 

ないから、アンケートやテストなどで、さもあるかのように見せる必要がある。

 

そして、それが業績という、企業が一番興味を惹かれ、お金を出すものに向けたい、と言うのがコンサル会社の興味の導線でしょうか。

 

無論、企業の活動としては至極当たり前の取り組みなのですが・・・

 

導入する企業なののであれば、やる気、そのものは存在しない、と言うところには注意すべきだと思います。

 

そして、

 

”やる気”と”生産性や業績”がを結びついている自社の事業システムの方に疑いを持った方がいいのではないか?

 

と言う問いを持つ必要があります。

 

感情と行動は結びつけたくなる傾向は日本人は多いように思います。

気合い、とか言いますから。

 

でも、それって本当でしょうか?

 

朝ご飯を食べるのに、やる気はいりませんよね。

トイレにいくにも、やる気はいらない。

やる気がないから呼吸できない、なんてこともない。

 

だけど、仕事や勉強にはやる気が必要になる。

 

なぜか?

 

それをそのようなシステム、やる気と行動が紐ついているようなシステムにしてしまっているからです。

いわば、やる気がスイッチを押さないと動かないようなシステムですね。

やる気スイッチとか言ってみたり。

 

大事なのは、やる気、ではなくて、やる気などどうでもよくて結果が出る

そんなシステムを作ることではないでしょうか?

 

と言い出すと、AIだとかに向かってしまうので嫌だ、と言う気持ちは湧くかもしれませんが、それはそれ。

無理矢理、やる気と業績を結びつけるのは違和感がある、と言う視点でした。

 

じゃー、お前はやる気に影響を受けてないのか?

と問われると、思いっきり影響受けてます!

やる気なさを言い訳にしてみたり(^◇^;)

 

ただ、

 

無自覚に、本来無いような言葉のつながりや意味づけを、誰かに捏造されるのは気持ち悪いのです。

 

それって、本当に関係するの?

 

と言う問いはいつも備えておきたいと思ったのでした。

Tumisu, please consider ☕ Thank you! 🤗によるPixabayからの画像

 

 

 

 

 

 

友人とはなにか? 一つの仮説

こちらの本を読み進めていますが、とても興味深い。

 

https://amzn.to/3wmKYcX

 

活きた抽象と具体の達人の 細矢さんと、凄まじい観察力と表現力で現実を切り取る佐渡島さんの知的会話のセッションが絶妙です。

 

色々と切り取りたいのですが、冒頭文にこのような記載があります。

 

引用します。

 

友人とは、趣味が一緒の人ではなく、会話の抽象度が一緒の人である。知人が、そんなふうに友人を定義していたのだけれども、まさに、細谷さんは会話の抽象度が合う人だった。楽しみながら、いろいろな話題について話した。

 

友人とは、

 

会話の抽象度が一緒の人

 

であると。

大変興味深い定義ですね。

 

もっと言えば、抽象度が揃いやすく、それでいて、高い抽象度に徐々に上がっていく人なのだろうと思います。

 

それにしても、なぜ抽象度なのでしょう?

なぜ、言葉なのでしょう?

 

一般的にノリがあうとか、ウマが合うとか、どちらかという、感性の部分に焦点があたりがちです。

 

言葉はむしろ逆にオマケ的なことで考えてしまいそうです。

 

でも、確かに考えていけば、言葉であり、その言葉の意味づけである抽象度になるのだろうと思います。

 

なぜか?

 

人は言葉の意味づけを類似性に基づいて行います。

 

犬、といえば、柴犬、ブルドックなどタイプは違えど、それぞれに過去の見聞きし、触れた経験で持って「あんなものね」とイメージして意味づけします。

 

その

 

「あんなものね」

 

が類似性です。

 

つまり抽象度が合う、一緒ということは、過去の経験や体験が同じである可能性が高い、ということですね。

 

ゆえ、話も合いやすいし、弾みやすくなるでしょう。

 

その意味で、

 

友人とは会話の抽象度が一緒の人

 

というのは原理に近いのかもしれません。

 

それは恋人探しにも通じるものがあるでしょう。

 

無論、フィーリングや一目惚れのようなこともあります。

これも、細かく見ていけば、言葉の世界になりますが、それでも言葉を超越して本能に触れる部分もあるのでしょう。

 

だけど、その後のコミュニケーションは言葉になるので、結果として、抽象度が合わない人とは長続きしないことになります。

 

言葉から友人関係を見ていく、というアプローチを探究していくと案外に面白いものでした。

 

逆に友達作り、文脈作りとは抽象度合わせとも言えますよね。

 

ちなみに抽象度の特性として、低いところから高いところに合わせるのは無理とは言いませんが、至難の業です。

 

それに対して、高いところから低いところに合わせるのは、それに比べると難しくありません。合わせる気があれば。

 

言葉遣いとは、関係性である。

 

この観点からコーチングなども考えいくと面白いですが、それはまた探究したいと思います。

 

 

 

 

権威は疑え、と思ったこと

まことしやかに、事実と違うことが事実のように喧伝されていることがあるな、と思う情報がありました

 

鉄鋼王 アンドリューカーネギーの墓碑に刻まれているという言葉

 

"おのれよりも優れた者に働いてもらう方法を知る男、ここに眠る"

確かドラッカーが書いていたので有名になったのではないかと思うのですが、そのような言葉ありました。

 

いかに自分が有能であることよりも、有能な人を活かせることが重要かを語る上での名言として、インパクトがありますよね。

 

ところが、

 

ameblo.jp

 

どうも・・・書かれていないようです・・・刻まれてもいない・・・

 

ドラッカー自身は一つのメタファーとして表現したのではないかなと推察しますが、それでも何も書かれていない。

 

でも、インパクトがあるので、広まっているのですよね・・・

また、ドラッカーの権威というものも、「ドラッカーが言っているのだから間違いない」という暗黙の前提に立ってしまい、疑いもしなかった・・・という事実に気づいてしまいます。

 

ここが興味深い。

 

アンドリューカーネギーが口癖のように言っていた、というのではそこまでインパクトがなかったはず。

 

それは墓碑=死という、人間にとって恐ろしく、そして魅惑的なものと絡めているから、インパクトが生まれているのかもしれません。

 

いずれにしても、それを事実として用いるのには気をつけた方が良さそうです。

 

クリティカルシンキングの領域になるのでしょうけども、相手の言葉、特に、今後の自分に影響を与える可能性のある言葉は保留することが良さそうです。

 

いやはや、私もまさかと驚いたのでした・・・反省。

 

 

 

 

”他者”に委ねてはいけないもの

高城剛さんのメルマガ 高城未来研究所 『Future Report』を購読しているのですが、Vol.571の読者とのQ&Aを読んでいてハッとさせられました。

 

以下引用します。

 

▽Q.6▼▽
この世の多くの人は、皆、幸せを求めています。
それがお金の人もいれば、仕事の人も宗教の人もいると思います。
でも、いったい幸せとはなんなのでしょうか?
世の中には、幸福論も数多く語られていますが、高城さんが考える 「幸せ」を教えてください。

【 A 】
僕は脳の報酬系を他人に握られないようにと、よく注意を促します 。
SNSからゲームに至るまで、プラットフォーマーは脳の報酬系に ハックし、ドーパミンを出し続けてやめられないようにするのを設 計の基本にしている
というより、突き詰めると結果的にそうなりました。
このようなインスタントな幸せ=ドーパミンは、神経伝達物質的に 見ると糖やコカインなどのドラッグと同じで、一時的な「幸せ」 を感じることができても長続きしません。
ですので、やめられなくなる=ドーパミン中毒に陥ってしまうので す。
そこでセロトニンです。
ハイパフォーマンス心理学者のマイケル・ジャーベイスは「セロトニンの放出は、フローがはじまったというシグナルなのではなく、 最終段階に来たというシグナルなのです」と話しています。
つまり、なにかに無心で取り組み、我を忘れた時に出るセロトニン こそ、人間の本質的「幸せ」だと考えます。
そのためのベースととなるのが、心身ともに健康であることに他な りません。
朝、目覚ましをかけなくとも起き、我を忘れるほど創造的になにか にとりくみ、少しだけ夕食を食べ、早めに就寝する。
ここには、お金も評価もありませんが、僕にとっては幸せを感じる 1日です。
日中、セロトニン出まくりですから。

 

後半のセロトニンの話も大事になのですが、気になるのは前半のドーパミンの話です。

 

プラットフォーマー報酬系を支配することで、ドーパミンを出し続け、中毒状態に導いていく・・・

 

おそらく、ゲーム、特にインストール無料のソーシャル系ゲームだったり、課金ガチャ系の大半はそれで成り立っているのでしょう。

それは様々な課金問題などから明らかです。

 

ふと、哲学的観点から気になったのは、気がつくと自分で自分を監視することにフーコーの提唱したパノプティコンも、脳科学的に考えると同じ原理で成り立っているのではないか?

 

と考えました。

 

パノプティコンは看取は見える、囚人は見えない、という仮想的な牢獄で

 

パノプティコン - Wikipedia

 

看守は囚人が悪事をしているのを発見したら罰する

 

としていると、囚人は自然と自分で自分を監視し、矯正されていく

 

という概念です。

 

現代社会をまさに表しているので、私は好んで探究しているのですが、今回の内容からも同じことを言えるのだろうか、と思いました。

 

ドーパミンを放出する権利を他者に委ねていないか?

 

看守は囚人を罰することで矯正しましたが、逆に考えると、看守から適度に快楽を与えられていくと、囚人はそればっかりしかしなくなるようになるのではないかと。

 

ゲームという監獄に入れられ、五感を使って没頭させられ、気がつくと、快楽を与えられ中毒になっている。

 

私自身、メタバース研究がてらFortniteをプレイしていますが、まさに計算されたかのような小刻みな報酬があり、没頭させられているという危うさも並行して感じています。

 

日常の中でなんだかよくわからないけど続けているようなものがあれば、一旦は

 

「監獄に入れられて快楽を与えられ続けていないか?」

 

と疑ってみることが大事です。

 

認識すれば、それを続けることも、やめることもできる可能性が高まるでしょう。

 

サブスク系もそうですが、継続しての使用がビジネスになっているものは大半はこの概念が何かしら組み込まれていると思いますので、まずは疑ってかかって、仕組みを理解しましょう。

 

報酬系を安易に他者に委ねてはいけない、と認識したのでした。

 

mohamed HassanによるPixabayからの画像

 

とりあえず、二つ折りにしてみて考える

細谷さんの本は分かりやすく、そして、深く気づかせてくれるので好んで読んでいます

 

この本も絵などもあり、コミカルなスタンスなのに話されていることは深い

 

 

この話の中に成功と失敗の話があります。

 

紐が一本あるとします

 

その両端が”成功”と”失敗”だとします

 

これが一般的な認識ですね。

成功は対極だ、ということです。

 

紐なので、両端を引っ付けてみます。

これで成功と失敗は概念的に同じになりました。

 

そして、ここからが興味深いのですが、では成功と失敗が融合された、その対極には何があるのか?

 

という話になります。

 

成功と失敗を抽象化するとなんでしょうか?

 

結果、ですよね。

 

だとすると対極はプロセスになるでしょうか。

 

結果ープロセス

 

という対極。

無論、他にも概念は考えられますが、今回はプロセスと置いてみます。

 

そして、もう一度、具体に落として、

 

成功と失敗 ー ●●

 

さて、成功と失敗の対極に入るものはなんでしょうか?

 

”何もしない”

 

が浮かび上がってきます。

 

何もしなければ、成功と失敗とは無縁になります。

 

細かくみていくとツッコミどころはあると思いますが、概念実験としてはとても、面白いのではないでしょうか?

 

生と死

 

勝ちと負け

 

好きと嫌い 

 

愛と憎しみ

 

喜びと悲しみ

 

などなど対義的な概念でやってみても面白いと思います。

 

これ自体が大事だというのではなくて、二項対立が極まってきたら、

 

折り返してみる

 

という視点が大事なのだろうと思います。

 

概念遊びと言いますか。

 

哲学においてはコペルニクス的転回のような経て、思想がアップデートされていっています。

 

例えば、無知の知のような。

 

言ったもん勝ち、というよりも考えたもん勝ちというところでしょうか。

 

今の悩みの対極は何か?

 

それを折り返してみると、その対極は何か?

 

悩みの視点に膠着せずに動かしてみる。

 

それが大事になるでしょう。

 

色々と使って思索してみたいと思います。

 

競争がなくなってはいけないメカニズム

競争は進歩のエンジン

 

そうだったのかと、ある経済学者の対談を見ながら、今更ながら思いました。

 

ただ、競争というものが、様々に解釈され、競争自体が目的化され、形骸化しているのも現実としてあります。

 

その結果、

 

競争=悪

 

のようにもなっている風潮もあります。

 

競争がなければ、様々なテクノロジーもおそらくは生まれず、サービスの高度化もなかったでしょう。

その辺りは社会主義、というよりも社会共産主義の壮大な実験を見ていれば、素人目にも明らかです。

 

この競争、というメカニズムがあるから資本主義は連綿と生き残ってきたのだろうと思います。

 

進化しなければ生き残れない

 

という話と競争が結びつけられてしまう気もしますが、それは拡大解釈であり、本来の意味として健全に切磋琢磨し合うものだったのはないでしょうか。

 

さて、何を思ったこんなことを書いたのかというと、小学校などを見ている競争することは良くない、競争で負けた方が気づくから

 

そんな文脈をよく見かけます。

また、我が子の活動を見ていてもそんな兆候があります。

さすが、手を繋いで一緒にゴールは見ませんでしたが。

 

先日の記事にも書きましたが、

 

比較は積極的に行うべきです。

大事なのはその立ち位置を知った後にどうしたいかであって、評価している暇はない。

 

なので、比較のためにも競争は大事だと思います。

 

ただ、競争というもの、その場そのものは競争の勝者ではなく、敗者が決める場になります。

敗者なくば、勝者はいません。

そして、本来ならば、多大な権力を持つ敗者の心情に阿る結果、競争の場がなくなる、というのが最近の病ではないかと思います。

その結果、進歩が生まれなくなってしまう。

 

だから、敗者の権力の自覚、というものを広める必要があるのではと思いました。

 

子どもたちも、遊びの中で、

「負けるの嫌だから、イチ抜けた」

とその場で負けることをドロップしたら、場は成立しなくなってしまいます。

 

それほど、敗者という立場は権力があるのです。

 

逆に君主論的に考えれば、君主が勝者で、民衆が敗者なのであれば、敗者の権力に対する自覚を持たせない、気づかせない仕組みを組み込まないといけないですよね。

 

ちょっと横道にそれましたが、これからの必要なのは勝者になるべく教育するのではなく、競争が維持されるように敗者を引き受ける自覚を育む必要があると思ったのでした。それが結果として、人であり、市場であり、国の器を大きくしていくのではないかなと考えます。

 

徒然なるままに・・・

 

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健全な自己否定が、健全な自己肯定を創る

西洋哲学はなんの役に立つのか?

 

それは人それぞれなのでしょうけども、その一つとして、

 

健全なる自己否定

 

をすることができることはあると思います。

 

そもそも、西洋哲学自体が系譜を見ても、自己否定の連続です。

過去を踏み台にしながら、未来を作る。

そして、また踏み台にされる。

ある意味、積み上げ的なのですね。

だから、理路を追うことができます。

 

一方で、天才が悟ったことを伝えることが多い東洋哲学は、正しいのかもしれないけど、その人が言っていること以上のことが言えない、ということがあります。

 

だから、信念やあり方などの参考にはなるけども、現実に適用しづらい。

少なくとも、説得し、納得するのは難しい、のだと思います。

無論、実証的に取り組む集団もありますが。

 

価値そのものなんてなくて、取り巻く構造により決まります。

自分が役に立つかは、自分の知識やスキルなどが決めるわけではなく、あくまで自分を置く環境によって決まりますよね。

 

そうなのだとすると、自分と取り巻く環境をできる限り正確に理解できないと、見誤る可能性が高くなります。

 

「私はこんなに頑張っているのに、周りは評価してくれない!

 

という愚痴はある面で真実ですし、正確に周りが見えています。

周りが評価してくれない環境に身を置いていることが見えている。

ただ、頑張っているかどうかは自分が決めることではない。

この点は変えないと時間とエネルギーを浪費することで1日は終わってしまうでしょう。

 

そうならないために、自分も周りも認識させてくれるのが西洋哲学だと考えています。

優しく言えばメタ認知、強く言えば自己否定が哲学の考えを軸に置くことで見えてきます。

 

そして、自己否定できれば、取り巻く環境も含めて自己肯定できることになります。

 

何かうまくいっていないな、違和感があるな・・・ということが自己否定のチャンスになります。

その違和感を環境のせいにするのではなく、客観的にみて、そして自己否定しましょう。

 

そして、自分を環境に合わせるか、自分に合う環境に変えるか。

 

おそらくは、前者の方が得るものが多いとは思いますが、いずれにしろ自己否定で自分を突き放し、客観的に自分を観察することで、成り行きで闇雲に変えるよりはより良い選択の確度が高まることでしょう。

 

こうして言語化してみて、また気づいたことがありました。

また書きたいと思います。

 

sasipreによるPixabayからの画像